日本語表記の歴史 7

撥音(はつおん)と促音(そくおん)

「日本語全史(沖森卓也著)ちくま新書」によると

「古代日本語の音節は、・・・現代と大きく違っている点は、拗音(キャ、シュの類)が存在しないこと、『ん』に相当する撥音や『っ』で書かれる促音がないことなどである(P30)」とある。

では、いつごろから『ん』、『っ』が使われるようになったのだろう。

「見て読んでよくわかる! 日本語の歴史②(倉島節尚著)筑摩書房」によると、

「平安時代i漢語の影響もあって『ン』と発音される音(撥音)が定着し、仮名で『む』と書かれるところや助動詞の『む』などが、『ン』と発音されるようになりました。

しかし、この音を書き表す方法がなかったので、『む』、『い』、『う』であらわしたり、何も書かない無表記であったりしました。

平安時代に書かれた紀貫之の『土佐日記』では、『天気(てんき)』のことを『ていけ』と書いています。」

とある。

左の写真がその土佐日記の一部。最後の行にある「ていけのことについていのる」というのが「天気のことについていのる」と読むが、書くときには「ていけ」と書いていたということがわかる。

さらに「っ」については、次のように書かれている。

「つまって発音される音『促音』も平安時代からはじまりました。

この音を書きあらわす方法もなかったので、『レ』のような符号や、『む』『う』であらわしたり、無表記であったりしました。

また『退屈(たいくつ)』のように『つ』で終わる漢語の『つ』の部分が促音に似た音たったことから、促音が『つ』と書かれるようになったと考える説があります。

なおこれでは本来の『つ』と発音される語と区別がつかないので、『現代仮名遣い』では促音は小さい『っ』で書くと定められています。」

とある。

(鎌倉時代に書かれた)「平家物語」の一部の写真にあるように、「あって」の「っ」が省かれていたり、「やんごとなき」の「ん」が無表記であったり、「まろうど きたって」が「まろうど きたて」と促音の「っ」がないことがわかる。

私達が使っている「ん」や「っ」も、長い歴史の中で作られてそれが広がっていったことがわかる。ここで紹介した本以外にも、たくさんの本があり、諸説色々ありということがわかった。

拗音は鎌倉・室町時代

拗音について、「日本語全史」には、

「拗音という語が『キャ、ショ』などの類を指す意味て用いられるようになったのは鎌倉時代中期頃の悉曇学(しったんがく)においてである。『悉曇初心抄』(1320年以前)には、キャは拗音、ヵは直音であるという記述が見え、これ以降は音韻として拗音が意識されるようになる」

とある。

拗音や促音を小さく書くのは今は当たり前だが、昔はどうだったのだろう。

上の写真は「小学指教図」といい、明治16年のもの。
図を使って言葉を教えたものだが、たとえば一番上の段の左には「きようだい(鏡台)」があり、「よ」は小書きの「ょ」ではない。三段目の左は「ちやうちん」、四段目の右は「らつぱ」とあり、拗音は小書きになっていない。
ここには小書きになっていない例を上げたが、子ども向けの本などには小書きの拗音も使われたということだ。字の大きさの統一はなかったのだろうか。

拗音が小書きになったのは昭和になってから

昭和61年に出された「現代仮名遣い」(昭和61年7月1日 内閣告示第1号)では「拗音に用いる『や、ゆ、よ』は、なるべく小書きにする」という指示で、必ず小書きにしなければならない、というものではなかった。
学校では促音や拗音は小書きー小さな文字の「っ、ゃ、ゅ、ょ」を使うように指導されているが、法令文書では「や、ゆ、よ、つ」は小書きではなく、普通の大きさの文字であった。
それが現在のようになったのは昭和63年7月20日の通知、(「内閣法制局発第125号 内閣法制局長官総務室から 内閣官房内閣参事官室あての通知)「法令における拗音及び促音に用いる「や・ゆ・よ・つ」の表記について」による。
そこに「小書きにする」と書かれている。
それから促音・拗音は必ず「小書きする」ことが当たり前になったのである。小学校で習っていることが普通になったのが昭和61年、1986年からだとは思いもよらなかった。

最後に半濁音(ぱ、ぴ、ぷ、ぺ、ぽ)について書いておこう。

「日本語全史」には「半濁音符はキリシタン資料の『落葉集』(1598年刊)に見られるのが最も古いようである。」と書かれている。

「落葉集」について調べてみると、長崎で刊行されたキリシタン版の漢字辞書であることがわかった。そこには
字訓にパ行の半濁音が使用されている。たとえば、
「一夫」・・夫に「ぷ」の送り仮名
「一飯」・・飯に「ぱん」の送り仮名
「一歩」・・歩に「ぽ」の送り仮名
が書かれているそうだ。

「見て読んでよくわかる! 日本語の歴史②」には、

「キリシタンの宣教師たちがのこした書物には、「パアテル」のような半濁点が書かれています。これはやがて、日本語でも使うようになりました。(パアテルとはポルトガル語で「①父なる神・聖父 ②神父」のこと)」
とある。

もともとの日本語になかった音が、中国やポルトガルの影響を受け、日本語の音が広がっていったことがよくわかった。
長い歴史と時間がかかって、現在私達が使っている「現代仮名遣い」となったわけだ。それにしても「拗音」が小さい「や・ゆ・よ」で政令文書書かれるようになったのが30年少し前からだとは、知らなかった。

 

 

 

日本語表記の歴史 5

「ひらがな」の誕生

「カタカナ」は漢文を読む工夫から出来たことはわかった。
漢文を読むために、日本語の注や読みなどを万葉仮名を利用していたが、漢字の一部を利用する「カタカナ」に発展していったと理解できる。

この当時の筆記用具は筆だったことを忘れてはならない。現在のように鉛筆やボールペン、万年筆はなかった。すべて墨と硯と筆で文字は書かれた。だから漢文の四隅に万葉仮名を使って読みや注釈を書き入れることが面倒だったことは想像できる。

漢字の書体の変化は左の写真のように変化した。
今から2200年ほど前、秦の国がそれまであった書体を「小篆(しょうてん)」という書体に統一し、さらにより書きやすい「隷書(れいしょ)」がつくられた。
「隷書」を早く書くために、「行書」「草書」という書体がつくられた。
私達が普段よく使う「楷書(かいしょ)」は一番あとからできた文字で、「隷書」から別れたものだと言われている。
楷書が一番あとから出来たとは知らなかった。私は「楷書」が「行書」や「草書」に変わっていったものだと思っていたら、そうではなかったのだ。

「草書」は平安時代には使われていたようで、万葉仮名が草書で書かれるようになった。

この「草書」が「ひらがな」の起源だと言われている。

「金田一先生と日本語を学ぼう2 文字のいろいろ」(岩崎書店)によると、

「平仮名のおこり
『万葉集』の作られた奈良時代の、次の平安時代(「794年〜1191年)になると、漢字はさらに広く使われるようになり、早く書くために『草書体』といって、字形をくずした書き方が行われるようになりました。この草書体から平仮名が生まれました。・・・・・平仮名の字体はたくさんありましたが、1900年(明治33)年に現在の形に統一されました。」とある。

「広がる!漢字の世界2 漢字が日本にやってきた!」(光村教育図書)によると、
「平仮名は万葉仮名の形を崩した文字、片仮名は万葉仮名の一部を取り出した文字です。くずし方や取り出し方は、時代や人によってさまざまでした。そのため、同じ「あ」を表す平仮名・片仮名にもいろいろな書き方がありました。
その状態が明治時代まで続き、1900年に「小学校令施行規則」が出されてようやく、平仮名・片仮名の形はわたしたちが現在使っている形に統一されました。そして、教科書が統一された形の文字でつくられました。・・・」とある。

(平仮名の成り立ち・・「金田一先生と日本語を学ぼう2 文字のいろいろ」より)

(「広がる!漢字の世界2 漢字が日本にやってきた!」(光村教育図書)より)

2冊の本を比べてみると、平仮名のもとになったという漢字は同じものが紹介されている。しかしそのくずし方は色々とあることがわかる。

 

 

 

ダンボールクラフト

ダンボールの工作の講座が大阪歴史博物館である、という案内を見つけた。
小中学生が対象だろうなあと思ったが、「どなたでも参加できます」と書いてあったので、応募することにした。

会場になった部屋には、出来上がりのダンボール模型が並べてあった。
講師は「diorama radio 藤川哲也」さん。
これまでの作品を見せてもらったが、集めると街ができるほど。

材料はすべて準備されていて、持ち物は「ハサミとカッター」を指定されていた。 私はカッターは用意していたがハサミを忘れていた。それも借りることができ、スムーズに進むことができた。

カッターで切っても机が傷つかないようなマットやものさしも準備されていた。 講師の先生が用意したダンボールには、あらかじめ鉛筆のようなもので設計図が書かれていた、

気に抜いたものを直方体に形作って、のりづけをする。輪ゴムでしばらく固定。

接着剤が固まるまでの間を利用して、ここ大阪歴史博物館の学芸員さんから「大阪市立中央公会堂」の歴史についてお話があった。
中央公会堂は1913年(大正2年)に着工され、1918年(大正7年)に竣工している。そのとき設計のコンペがあり、1位にえらばれたのが上の写真の岡田信一郎さんのものだそうだ。
中央公会堂の特徴は、材料がすべて国産だということ。白い大理石も赤いレンガも国産である。その赤いレンガを作ったのがどこかというと、堺市だということだ。大正時代、日本のレンガ生産量は堺市がトップだと言う。現在は北海道だそうだ。

2位、3位になった作品も見せてもらった。今のデザインと全く違っている。
もし違うデザインが採用されていたら、中央公会堂付近の風景も違って見えるだろうなあと思った。

3つのダンボールの直方体に色を塗る。パステルを貸してもらって、実物の写真を見ながら色を塗る。 窓の形や柱の位置などは、本物そっくりにしてもいいし、私のように自由にデフォルメしてもおもしろい。

植木と建物の上にある避雷針の模型はサービスでいただいた。
かまぼこ板のような板、バルサ材のようだが、それもサービス。そこには講師の先生が用意された「大阪市中央公会堂」のネームシールを貼って出来上がり。

一緒に作った人たちの作品。 同じ材料、同じ資料を使っても、出来上がりが違うのがおもしろい。今回は大阪市中央公会堂がモデルだったけれど、大阪や全国の有名な建築物をモデルにして、ダンボールクラフトが楽しめそうだった。
来年もあったら、行ってみようかなと思った。