染め体験(堺の伝統産業)

堺市博物館で、左のパンフレットの写真のような体験講座があった。

「職人に聞く・学ぶ注染 & 染め体験」

「注染(ちゅうせん)」とは堺の伝統産業である。パンフレットの説明を引用すると、
「注染とは注ぎ染めの技法の一種で、手作業でありながら多彩な柄、小紋など微妙なタッチや独特の色合いを出す事ができる堺の伝統産業の一つです。和晒生地に乗せた型紙の上から防染糊を塗り、模様に合わせて土手を引き、その囲いの中に染料を注ぎ込みます。表裏を同時に染色するので、生地の糸までしっかり色が付き、両面に同じ柄、色合いで出ます。注染職人の匠の技術による鮮やかな彩りと自然なぼかしが特徴で、手染めならではの奥行きと風合いが醸し出されています。(「浪華本染め(注染)」は2019年に国の伝統的工芸品に指定されました)

博物館の体験の部屋にはパネルや注染の反物が展示されていた。写真はとってもいいがブログなどで公開してはいけないと言われたので、「イーモール堺 堺いち」のホームページに注染のユーチューブが公開されているので、そのアドレスを書いておく。
そこには実際の作業の様子が動画で紹介されていて、上の解説にある「型紙」「防染糊」「土手」「染料の注ぎ込み」の実際がよくわかる。

https://www.emallsakai.com/SHOP/150262/list.html

雪花絞り染めの体験

私達は「注染」を体験するのではなく、「雪花絞り染め」という絞り染めの体験を行った。その作業は以下のようなものだった。

1,和晒(わざらし)折りたたんで三角形を作っていく。

晒(さらし)とは、織物の不純物を取り除いたもの、漂白した織物で、ここでは木綿の晒を使っている。

もともと木綿の繊維自体に油成分(脂質)やペクチンなどの不純物が含まれている。また機織りの時に縦糸に糸切れを防ぐための糊がぬられるそうだ。したがって染めるためにはそれを取り除かなくてはならない。
古くはアルカリ液で煮て水洗いをして不純物を取り除き、日光による漂白をしていた。
明治16年にさらし粉を使って機械で晒す方法が導入され、5〜6時間で生産される晒木綿ができるようになった。これを「洋晒」とよび、以前からの製法で生産される晒木綿を「和晒」と呼ぶようになったと説明があった。
また実際に晒す前の木綿の布と和晒の布がくばられ、スポイトで水を落としたときの違いを体験した。
晒す前の木綿は水を弾き、水滴が布の上に丸くなる。和晒の布はスッと水を吸い込んでしまう。なるほどこうなると染色できるわけだ。

堺の晒の伝統は古く、400年にさかのぼるそうだ。もともと木綿は桓武天皇の時代、今から約1200年ほど前、崑崙人(インド人のこと)が三河国に木綿の種を伝えたと言われているそうだ。
平安時代から戦国時代にかけて何回か栽培が試みられ、文禄年間(1590年代)に本格栽培が始まり、三河の国、河内の国、和泉の国、摂津(兵庫県を含む)で広がったそうだ。
木綿が栽培される前の日本は、絹・麻・楮(こうぞ)・藤・蔦(つた)などが布として使われ、庶民にとっては冬は寒さとの戦いだったと説明があった。

2.折り終わった晒の布はアイロンを掛け、分厚い三角形のアクリル板2枚でしっかりとはさみ、テープで固定する。この作業は職人さんがやってくれた。

3.染色液につけて、色を染み込ませる。
四色の染色液が用意されていた。
三角形おってあるので、アクリル板を染色液に突っ込み、染色液を吸い込ませる。
四色全部使ってもいいが、白い部分の残すほうが見栄えがする、というような説明があったので、三色だけにした。
写真では手袋をしていなので、やっぱり手に絵の具がついてしまった。ここは手袋が必要なところ。

 

薬品を使って染色液を洗い、そのあと水洗いをし、脱水する。 この作業はすべて職人さんがやってくれた。 冬も水洗いだそうだ。昔は川に流して水洗いもされていたと聞く。

アイロンをかけて作業終了。 家でもう一度洗い、乾かす。
雪の結晶のような花模様ができて、かわいらしい手ぬぐいとなった。
このてぬぐいは色んな所で使えそうだ。
堺の染工場は全国で最大を誇っているが、そのことがあまり知られていないことが残念だ。東京などのほうが有名なのはデザイン力の差だと職人さんがいっていた。後継者の育成や、時代を先取りするような先進性が求められているのかもしれない。
今日のような体験講座をもっと広めて行くことも、一つの方法だと思った。
私にとっていい体験になった「染体験」だった。

 

 

 

勾玉(まがたま)づくり

堺市立博物館で「色付き勾玉を作ろう」という体験講座があった。
堺市立博物館では、勾玉づくりとかダンボールで作る古墳づくりなどの、子ども向けの体験講座が企画されている。
堺市という土地柄だからだろうか。小学生の子どもたちにはとっつきやすい講座だ。

20人程度の体験講座。最初に勾玉についての説明があった。
「勾玉とは? 古代のアクセサリー。人の埴輪などから、首飾りなどにつけていたことがわかります。 古墳を発掘すると、大量の勾玉が見つかることもあります。 勾玉は、縄文時代から古墳時代のあいだに作られ、それよりあとには、急に作られなくなりました。」とパワーポイントを使って教えてもらう。
へーっ、そうなのか。古墳時代以降は勾玉の制作は廃れてしまったのか。それにはどんな理由があるのだろか。大きな謎だ。

体験講座では、滑石(むかしロー石といってコンクリートや壁にらくがきしたものだ)を使って工作した。
事前に穴が開けられた滑石が配られる。そこに勾玉の形や、自分で作りたい形を赤鉛筆でふちどる。型紙も用意されていた。
形が決まったら、サンドペーバーで赤鉛筆で書かれた形を削り出していく。
これが結構時間がかかる。

鉛筆にサンドペーパーを巻いたり、木の角を使ってのぞみの形を作り出す。
何を使うのかを考えるのも、頭の体操だ。

博物館の人の話によると、実際の勾玉は「ひすい」「水晶」「べっこう」「めのう」などで作られていたそうだ。なかには「土器製のもの」「青銅製」のものもあったらしい。
それにしても縄文時代に硬いひすいや水晶をどのようにして磨いていったのだろう。また丸い穴を開けるのはどういう方法だったのだろう。
博物館の人に聞くとまだまだ完全にはわかっていないそうだ。硬い水晶の棒や粉を使ってみがいたり穴を開けたのではないかと推測されているそうだ。それにしても長い時間がかかっただろう。

ほぼ形が削り出されたら、水性のサンドペーパーを使ってみがきをかける。
でこぼこのない、なめらかな勾玉にしあげる。
今回は色付きの勾玉なので、水性塗料を使って色付けをしていく。
ここでは五色の色から選べるようになっていた。

この独特な形は何を表しているのだろう。何に由来しているのだろう。
博物館の人に聞くとこれも諸説あり、定説はないそうだ。
わたしはなんとなく胎児の姿を想像すると言うと、
「そういう説もあります」と返事があった。
ウィキペディアをみると、次のような説が紹介されていた。

  • 動物の牙で作った牙玉を基とする説
  • 胎児の形を模したとする説
  • 魂の姿を象ったとする説
  • 巴形を模したとする説
  • 月の形を模したとする説
  • 形そのものに意味があったとする説
  • 破損した耳飾を再利用したとする説

このように諸説あるが、この形は日本古来のもののようだ。 日本のデザインだとすると、なんとなく親しみが湧く。そういえば三種の神器の一つに、「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」がある。

縄文時代、弥生時代、古墳時代の人々の生活や文化について、勾玉づくりをとおして考える機会ができたのは大変有意義だった。堺にはまだまだ面白い取り組みがあると思う。

 

 

 

 

アナレンマ2

ここはM-Cみはら歴史博物館の裏側にある「みはらふるさと公園」。
写真は「アナレンマ」を利用した「正午日時計」。
柱の足元の影に注意。三本の柱にくくりつけられた紐に支えられた円形の金属板の影が見える。近寄ってみよう。

5円玉のように真ん中が空いた影が、地面に写っている。

5円玉のような影が動いて、目盛りのある柱に移動してくる。しかし目盛りの面が地面に垂直なため、その影は広がり、うすくなり、円形の丸い穴は全くといっていいほどわからない。

上の写真は違う日にとった写真だが、こんな感じ。
なんとなく楕円の黒い影があるのがわかると思う。この黒い影が、空中に設置されている真ん中に穴の空いた円形のプレートの影。

柱に斜めに投影されるため、その影が見えにくくなっているのだろう。
ではその付近に角度をつけて紙をおいてみよう。

写真のように、円形の影と真ん中に穴の空いた様子がよくわかる。
斜めに投影されているために、このようにはっきりと見えないのだ。

時間とともに真ん中に穴の空いた影が動いていることがわかる。
これで正午になった時がわかるという仕組みなのだ。

柱に刻まれた目盛りを見ると、12月21日頃が一番高い位置にある。
太陽高度は低いが、真ん中に穴の空いた金属のプレートと、この柱との距離が近づくため、はっきりとした円形の影と真ん中に穴の空いた様子がわかるかもしれない。

今年いっぱい、時間をかけて観察する必要があるようだ。