ポルトガル紀行 18

ポルトガル5日目
        FADO(ファド)

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スペインにはフラメンコ、ポルトガルにはファド、とそれぞれの国に欠かすことのできない音楽がある。ポルトガルに旅行するというと、「機会があればファドは是非」といわれることが多い。
私自身、ファドというのははじめての音楽だった。

「地球の歩き方」にはこんな説明がある。

「かつて南米のブラジル、アフリカやアジアなど世界各地に進出したポルトガルは、植民地から収奪した資源を本国に送り込んだ。それとともに外国人や異国文化がボルトガルに流入する。リスボンの下町で歌いだされたファドだが、もともとポルトガルにあったという説から、イスラム起源やアフリカ伝来の説まで、その起源には諸説がある。
 有力な説の一つは、ブラジルでアフリカ人奴隷が親しんでいた官能的な音楽舞踊が、リスボンで下町に広まったというもの。それに他の音楽の要素が加わり、しだいに打楽器の要素が失われ、歌の部分が強調されるようになる。

ファドの形式は19世紀に確立され、しだいに庶民の間に広まってきた。そして現代まで受け継がれている。」

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私たちが行ったのは「ティンパネス」というお店。そしてこれがステージ。
基本はファディスタとよばれる歌い手、ギターラ(ポルトガル・ギター、6組の複弦で全12弦のギター)、そしてヴィオラ(一般のクラシック・ギター)の3人。打楽器などはない。
シンプルな構成になっている。

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私たちは食事付きのファドショーだったが、飲み物だけで参加の外国人グループや家族で食事に来ていたポルトガルの人たちのグループもあった。

メニューはワイン付き。カルド・ベルデ(じゃがいもと青菜のスープ)、仔牛肉、アイスクリーム、コーヒー、パンだった。
相席の人がお肉はだめ、といってたらしく、その人には魚料理が提供された。
食事をしながら、ワインを飲みながらのショーだった。

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経験豊かそうな女性、男性と二人の歌い手が交代して歌ってくれる。
ギターのチューニングや音程合わせが丁寧にやられている。
途中で、フォークダンスのようなショーやグループでの歌。そしてギターだけの演奏とつづく。
最後にメインのファデスタが黒い衣装、で歌いあげる。

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ファドを聞く前に、ガイドさんからバスのなかでいくつかの解説を聴いた。 一つは司馬遼太郎さんの「街道をゆくシリーズ』にファドのことがのっているということ。 もう一つは、ちあきなおみさんがファドを歌っているということ。 日本に帰ってきてから、調べてみた。 YouTubeにちあきなおみさんのファドがあったので、下に紹介しておく。

https://www.youtube.com/watch?v=DpbkYQn1eDM

ちあきなおみさんの歌は、ファドの雰囲気はよく伝わっていると、私なりに思う。

ポルトガルでのファドショーの最後の女性ファデスタは、津軽海峡・冬景色を歌う石川さゆりさんを思い出した。切々と感情を歌い上げる節回しは、日本の演歌と何かしら共通点があるようにも聞こえた。

ファドといえばアマリア・ロドリゲス。
アマリア・ロドリゲスの紹介と音楽がのせられているブログがあったので、下記にURLを書いておく。

http://blogs.yahoo.co.jp/maskball2002/66719976.html

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司馬遼太郎さんの「南蛮のみち2」にアマリア・ロドリゲスのことがかかれているので、その一部を引用する。

「アマリア・ロドリゲスは、仄聞するところでは、リスボンの庶民街であるアルファマの洗濯女だったという。(物の本では、波止場でオレンジを売りながら船乗りたちのためにうたっていたという。)アルファマの丘は、丘そのものが集落である。石段で上下するが、ところどころに泉がある。その泉に女たちが集まって洗濯する。
そういう場合、たれかがうたう。アマリア・ロドリゲスは洗濯をしながら仲間たちを楽しませつつ、自分の手の動きにもリズムをつけていた。やがて専門の歌手になった。
・・・・・・・・・略・・・・・・・・・

やがで部屋いっぱいに声量が満ちた。声は強靭に、はるかにのびてゆくかと思うと、にわかに鼻音のなかに縮まり、そのうち、水色に色づいたシャポン玉のように丸い詩情がほかほかとうまれ、軽やかに空中に飛翔し、そのことに油断していると、ふたたびたかだかとした烈しさに変わり、また胸をかきむしるような悲しみになってゆく。さらには、泣き寝入りする幼女の夢の中でささやくような調子にかわっている、というふうで、聴きているうちに、単なる声ではなくなってくる。そこに女性のゆたかな肉体がひろがり、さまざに色づく心が戦慄し、ときに凝縮し、不意に肉体がつまさき立ってみえざるものへはげしく両腕をふりつづける。歌詞はわからないが、海へ出て行った夫や恋人のまぼろしまで浮かんできそうである。ポルトガルの女たちの宿命をうたっている。

IMG_8981ヴァスコ・ダ・ガマ以来、男たちは海へ出て行ったし、いまもゆく。女たちは陸に残され、男たちが残して行った子供を育て、行商をし、ときに泉へゆき、汚れものを岩角に打ちつけて洗い、濯ぐ。ポルトガルの女たちは何世紀もさびしさに耐えてきたが、ついにたれが生んだともなしに、ファドがうまれた。もっともその成立は存外あたらしく、19世紀ぐらいだという。」

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私たちの見たファドショーは、ステージだけではなく、客席の中に入って歌ってもくれた。
その情感は日本人と共通するものがあるかのように、迫ってくる。
ただ残念なことに、歌詞がわからない。曲の解説があれば、もっと想像しながら、ファドの世界に入っていけたかもしれない。

合間にCDをもって販売に回ってくるが、ポルトガル語がよめないので歌手の名前や曲のタイトルがわからない。
買って帰っても、日本で曲の内容を確かめることもできないと思い、買うことはあきらめた。

ステージが終わったら、時計を見ると10時をとっくにすぎていた。今日のような観光客相手のショーでなければ、ファドはこれからますます盛り上がるそうだ。

観光客の日本人にとっては、10時をすぎるとそろそろ休憩がほしくなるころ。
バスに乗って、ホテル「ドン・ペドロ・パレス」に向かう。
ツアーでの観光は今日まで。明日1日は全くのフリータイム。
ただお天気だけが心配だ。

 

 

ポルトガル紀行 17

ポルトガル5日目
     ベレンの塔・発見のモニュメント

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見えているお城のような建物は、「ペレンの塔」。
「南蛮のみち2」に次のような文章がある。

「・・・・さらに河口ちかくまでゆくと、水中の岩礁に美しい大理石の塔が立っている。塔というより小城郭といったほうが正しい。 ベレンの塔とよばれ、16世紀のものである。日陰の面は海風に錆びて老いた貴婦人のように陰鬱な表情をしているが、日がさす面は、はじめて社交界に出た少女の頬のような血色をしていて、ういういしい。この塔に感ずるものは、つめたい力学ではなく人格であり、それも女性を思わせる。 塔が女性的であるところに、ポルトガル人のやさしさを感ずることができないだろうか。 ながい航海のすえ、母国の河口港に入ってくる船は、船体も痛み、ひとびとは疲れ、女性を恋い、さらに故国において母性を見出だすべく心が渇ききっている。かれらが夜、港外で塔の灯を見、朝、塔の姿を見たとき、生きてリスボンにたどりついたという思いが、体中を溶けさせるのにちがいない。そういう感情を、この塔の発注者も設計者も施工者も悲しいばかりに知っていた。
塔は、岩礁の上にある。
港内の岩礁はそのままでは危険である。港によっては標識をたて、夜は日を焚いたりするのだが、16世紀のポルトガル人はこの岩礁に塔をたて、帰ってくる船乗りたちのために、国家と女性を象徴する微笑を造形化させたのかと思わせる。
・・・・・・・略・・・・・・
言いわすれたが、ジェロニモス修道院は、ヴァスコ・ダ・ガマが持ち帰った富でもって建てられた。ペレンの塔はその工期中の建物で、見たところおなじ石材がつかわれているように思える。
眺めていると、テージョ川に佇み(たたずみ)つくす公女のようにも見えてくる。」

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もうこれ以上はないというぐらいの文章で、「ベレンの塔」への惚れ込みと思い入れが書かれている。
「ベレンの塔はテージョ川に佇む公女」という言葉がここから生まれた(と思う)。

ベレンの塔は1515年から1521年にかけて建設されている。
天正遣欧少年使節団は1584年8月にリスボンに着き、1586年4月にリスボンを出港している。ポルトガルに到着したとき、そして出発の時にこの「ベレンの塔」を見ているにちがいない。きっと感銘と感慨の時だったと思う。

私たちはここでポルトガル名物といわれている「焼き栗」を食した。
現地のガイドさんのおすすめ。日本の天津甘栗とはまたちがう、こちらのほうが栗の味そのものを楽しむという焼き栗だった。

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IMG_8925これが「発見のモニュメント」。わたしがこの旅行で、一番見たかった像。

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発見のモニュメントの前の広場にある世界地図。 ポルトガルがいつ、世界のどこに行ったかがかかれている。もちろん日本にも来ていることがわかる。

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ポルトガルから、南アメリカ大陸へ飛行機が飛んでいる。
それがさきほど「ベレンの塔」のそばで見たフロートのついた水上飛行機。左上の写真を見ると、ポルトガルと南アメリカは案外近いことがわかる。1922年、リスボンからリオデジャネイロまでの8383km、飛行時間62時間26分という記録が残っている。大航海時代には何ヶ月もかかったところを、3日もかからずに飛んでいるのだ。技術の進歩というか、時代の変化がこれでわかる。

モニュメントの東側にはエンリケ航海王子+16人の像、そこには私たちの知っている人物の像がいる。インド航路を発見したバスコ・ダ・ガマ、世界一周をしたマゼラン、そして日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルである。

発見のモニュメント1

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西側にはエンリケ航海王子+15人の像。残念ながら私の知らない人たちだったが、数学者、天文学者、作家、画家、神学者など当時の有名な人物がいるらしい。

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このモニュメントは私がポルトガル行きを決めた写真の一つ。 なんともロマンチックでしかも巨大なモニュメントのように見えたので、是非自分の目で見たかった。 さて、この発見のモニュメントについても、「南蛮のみち2」のなかで書かれている。

「ジェロニモス修道院の前は広場になっていて、すでにのべたように一部を路面電車のレールがかすめている。そのむこうが、広大な河口であり、ゆたかに水が流れている。インドをめざすヴァスコ・ダ・ガマが、エンリケ航海王子の死後、1497年7月9日、河口のこの地点から四隻の船体をひきいて出て行った。
その場所に、巨大な船首と帆を象徴した形の「海洋発見記念碑」(注 発見のモニュメントのこと)が、水にむかって突き出している。
エンリケ航海王子の没(1460年)後、500年を記念して建てられたもので、石材は灰色がかった大理石である。船と帆は半抽象化されているが、モティーフは3本マストのカラヴェラ船の船型からとられたことはまちがいない。カラヴェラ船という、遠洋航海に耐える船を考案し、採用したのは、エンリケとその周辺のひとびとであった。

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ちなみに、エンリケは航海王子とのちによばれながら、海洋経験は若いころ二度ばかりアフリカに渡っただけのことで、みずから操船したことは一度もなかった。かれは海洋教育の設計者であり、航海策の立案者であり、推進者であった。かれの偉大さは、むしろ海に出なかった”航海者”であるというところにある。

しかし記念碑では船首に長身のエンリケ航海王子が立っている。例の修道士のような姿の大理石の彫像で、かれはカラヴェラ船の模型を右手にもち、右脚を踏み出して、遠くを望んでいるのである。その彫像は中世の教会が好んだ写実像である。丁寧な写実表現によって寓意を含ませるというカトリック美術の伝統が、現代彫刻家によって律儀に守られているのがおもしろい。さらに王子のあとに、おなじ手法による彫像がつづく。ヴァスコ・ダ・ガマもいれば、剣を杖にするものもいる。緯度測定器をもつ者、ペンをもつ者、聖書や旗をかざす者、さらにはうずくまって合掌している僧服の者もいた。みな名のある人物にちがいない。・・・・」

高さ52mの記念碑である。通天閣の約半分の高さだと思えばよい。

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エンリケ航海王子の前にあるテージョ川の川幅は広い。
写真にかすかに見えている橋が「4月25日橋」。長さ2277mの吊り橋。
1966年に開通し、最初は当時の独裁者の名前にちなんで「サラザール橋」とよばれていたが、1974年4月25日のカーネーション革命により、「4月25日橋」とよばれるようになった。

エンリケ航海王子はポルトガルの視点を海外に向けさせた先駆けの人。この人がいたから日本とポルトガルの関係ができあがったといってもいいだろう。
さて、いまエンリケ航海王子の目には何が写っているのだろう、何が見えているのだろう、と月並みなことを思ってしまう。
極東の国からヨーロッパの西の端、この地に来た甲斐があった。と思える塔と像だった。

 

 

ポルトガル紀行 16

ポルトガル5日目
      ジェロニモス修道院

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ウィキペディアによると、

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「ジェロニモス修道院(葡: Mosteiro dos Jerónimos)は、ポルトガルの首都リスボンのベレン地区にある修道院であり、世界遺産「リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔」の構成資産のひとつである。マヌエル様式の最高傑作ともいわれ、大航海時代の富をつぎ込んで建築された。
ヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路開拓及び、エンリケ航海王子の偉業を称え、1502年にマヌエル1世によって着工され、1511年に回廊など大部分が完成したものの、その後、マヌエル1世の死やスペインとポルトガルの同君連合による中断等もあり、最終的な完成には300年ほどかかっている。 その建築資金は最初バスコ・ダ・ガマが持ち帰った香辛料の売却による莫大な利益によって賄われ、その後も香辛料貿易による利益によって賄われた。」

ここには、ヴァスコ・ダ・ガマとルイス・デ・カモンイスの棺が安置されているそうだが、工事中のために私たちは見ることができなかった。

天正遣欧少年使節が日本に帰る前に、この修道院を訪れている。
その壮大さに驚いたと伝えられている。

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長さ300mというから、カメラにはおさまらない。(ウィキペディアにはその全景が載っていた。上に引用してあるとおり大変大きい)
西門の工事中のため、さらにはお葬式がはじまったので二階からの見学となった。
左の写真の黒い車と周りの人達がその関係者。世界遺産の修道院といっても、その本来任務はきちっとやっているんだなあと感心する。
下の写真の中央の門が、南門。ここには聖母マリアを中心に24人の聖人や高位聖職者の像が据え付けられている。1518年の制作ということだから、天正遣欧少年使節の少年たちはこの門を見て驚き、そしてこの門をくぐったのだと思う。

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長さ55mの回廊。ここは中庭が美しいのが有名。

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ここは食堂。とても広い。写真が小さくてとてもわかりにくいが、右の写真の壁にかかっている絵は、聖ジェロニモスだそうだ。

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ジェロニモス修道院から周りを眺めたところ。 車、市電で直ぐ側まで来ることができる。
目に入ったのが、この三輪車。観光用のものだろうか。ベトナムのタクシーのような役割なのだろうか。三輪車? そばを通ったけれど、この車の仕組みはよくわからなかった。
司馬遼太郎さんは「南蛮のみち2」で次のように書いている。

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「修道院の前を、市電が通っている。その線路越しに望むと、皮膚色の大理石が、よほど結晶粒がこまかいのか、うすぎぬを透した女性の肌を思わせるように美しい。
この修道院は、聖母マリアにささげられたものだという。その目的は、この港を出て、遠く他の世界へゆく遠洋航海の船舶の安全を祈るためだったというが、建物ぜんたいに感じられるのは成熟した女性のやさしさである。
建物はふんだんに装飾されている。しかしながら彫刻はすべて女性の首飾りや耳飾りの細工のようにこまやかで、繊細であり、威圧的なところはすこしもなく、建物そのものが、聖母の肉体を象徴しているのではないかとさえおもわれる。ついでながら、建築様式は15世紀末のポルトガル好みとしか言いようがない。内部の回廊がとりわけ美しく、それを強調するためか、高層でありたい衝動をおさえ、ことさらに二階建てである。
しかも”聖母”をかざる彫刻群のなかで、海にちなんだモティーフのものが多い。建物が聖母の肉体であるとすれば、それらの装飾は、聖母に対して、かたときもここから出稿して行った船たちの安全をわすれてくださるなと願うためのものであることがわかる。」

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ジェロニモス修道院の中の見学は予定されたいたようにはいかなかったが、告別式が実際に執り行われているところに遭遇出来たことは、めったにないことだと思う。

バスに乗って移動。すぐそばにあるベレンの塔へ。

 

 

 

ポルトガル紀行 15

ポルトガル5日目
      リスボン サン・ロッケ教会

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サン・ロッケ教会の原型となる礼拝堂は1506年から1515年にかけてつくられたと言われている。
1540年にイエスズ会の会員たちがポルトガルにやってきた。その中には、フランシスコ・ザビエルもいた。
イエスズ会はサン・ロッケ教会を所有し、1565年から1587年にかけて現在のような建物に改築した。1584年に天正遣欧使節団を受け入れ、彼らの宿舎として提供された。彼らは約一ヶ月間滞在したそうである。
私たちが見たサン・ロッケ教会を天正遣欧使節団の彼らも見ていたわけである。

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なんとも豪華な礼拝堂だ。 植民地だったブラジルから算出された金によってこれらの豪華な内装が出来上がったという。そうすると天正遣欧使節の少年たちが見た礼拝堂はこのように豪華になる前のものだと思われる。

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IMG_8861これがフランシスコ・ザビエルの像。 ここには、イエスズ会創設者のロヨラなどの著名な4人の聖人像が並ぶ。その中の一人がザビエル。この像は1625年から1628年にかけて造られたという。
私たちが教科書で見ているザビエルと少し雰囲気が違う。実は教科書のザビエルの像は日本人画家によって描かれたものといわれていて、現在は神戸市立博物館に保存されている。
4月9日(土)から5月29日(日)に、南蛮美術・古地図企画展「西洋との出会い」で、この重要文化財になっている「聖フランシスコ・ザヴィエル像」が展示されるようだ。詳しくは、神戸市立博物館のホームページを参照してほしい。

http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/museum/meihin_new/402.html

ザビエルの像

フランシスコ・ザビエルはポルトガル人ではない。司馬遼太郎さんの「南蛮のみち1」では次のように書かれている。

「フランシスコ・ザビエルは何国の国民であるか。バスクであることはまぎれもないことだが、たたバスクは文化圏であってもかれの国籍にはならない。
国籍とは、多分に近代的な法体系からうまれた概念で、16世紀のザヴィエルにまでそれを遡及させてあれこれ考えるのは、むろんむだなことである。
ただ、現代は国家の競り合う時代だから、そのことは一応考えておかねばならない。こんちにのスペイン人たちは、ザヴィエルをもってかれらの国の歴史上の人物としているのである。たしかに、ザヴィエルの父が法律知識を持って宮仕えしたナバラ王国の首都パンプロナは現在のスペインの国土にあり、またザヴィエルがうまれたザヴィエル城も、同様で、私どもはスペインの地図の中でその小さな村をさがす。・・・・」

司馬遼太郎さんの「南蛮のみち1」は、ザヴィエルの伝記といっていいぐらいに、彼のことが詳しく書かれている。ところでフランシスコ・ザビエルがバスク人てあったということは大変な驚きだ。フランスとスペインの両国にまたがる地域で、言語もフランス語やスペイン語と全く違う古い歴史のある文化圏であり、「カルメン」の「ドン・ホセ」がバスク人として登場したことを思い出す。

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フランシスコ・ザビエルは日本人のことをどのように見ていたのだろうか。
彼は当時のポルトガル国王の肝いりで日本に向かっている。
ザビエルは日本に来る前にマラッカで、友人の船長ジョルジ・アルバレスの仲介で日本人3人と合っている。その3人を通して日本人を知ろうとした。そして船長に日本について知っていることを書いて欲しいと頼んだ。当時は書く、といえばラテン語であったそうだ。ラテン語で書かれたゆえに現在までその記録は残った。

「南蛮のみち1」にこう書いてある。

「船長はその原稿をわたした。ザヴィエルは、はなはだしく心を動かした。ザヴィエルを日本に来させた契機はいつくかあげられるにしても、この船長の文章が最大のものであったろう。
 日本人は、傲慢で怒りっぽい。
 欲は浅く、はなはだ物惜しみしない。
 他の国について知ろうとする切ない要求がある。
 嫉妬を知らない。
 盗むことを憎む。
 貴人を斃せば(たおせば)、りっぱな騎士とみなされる。
 音楽・演劇を愛する。賭博をさげすむ。宗教心はつよい。

・・・・・・・・・・略・・・・・・

 ザヴィエルが、日本の鹿児島に上陸したのは、1549年(天文18)である。秀吉や家康の少年期で、武田晴信(信玄)などの活動時代であった。ときに8月15日で、聖母被昇天の祝日であるとともに、15年前、モンマルトの丘でイエスズ会を結成した日にあたることをザヴィエルはふしぎにおもった。
 その年の11月5日付けの手紙に書いている。(司馬さんの注 以下、前述の岩波文庫版から中執し、ただカナづかいなどを一部こんにち風にする。)

 私たちが今までの接触によって識ることのできたかぎりにおいては、この国民は、私が遭遇した国民の中では、一番傑出している。

 日本人はたいてい貧乏である。武士たると平民たると問わず、貧乏を恥辱だと思っている者は一人もいない。

 かれらには、キリスト教国民の持っていないと思われる一つの特質がある。
ー それは、武士がいかに貧困であろうとも、平民の者がいかに裕福であろうとも、その貧乏な武士が、裕福な平民から、富豪と同じように尊敬されていることである。

 彼等は侮辱や嘲笑を黙って忍んでいることをしない。

 日本人は妻を一人しか持っていない。

 窃盗はきわめてまれである。

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 ザビエルは好意的な印象を持って日本に向けて出発し、そして日本での実際の印象もそれに違えることはなかったようだ。
ザヴィエルは精力的に日本をまわって信者を増やしていった。
2年日本に滞在し、日本全土への布教のためにいったんインドに帰った。
ザヴィエルは日本での布教は失敗に終わったと思っていたようだが、実際はその逆である。2016年の現在、フランシスコ・ザビエルの名前を知らない人はほとんどいない。2007年の国立教育政策研究所の調べでは、小学校6年生約1600人のアンケートで、42人の歴史上の人物と業績を結びつける問題では、フランシスコ・ザビエルは98.2パーセントの正答率を誇っている。

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サン・ロッケ教会を出て、近くにあるサン・ペドロ・アルカンタラ展望台に行く。
リスボンは7つの丘の町、といわれるくらいに坂道と丘の町である。ケーブルカーの終点にもなっている。

大変展望の良い公園がある。こうしてリスボンの町を眺めると、中世の街、という言葉が浮かんでくる。高層建築がない分、空が高くて広い。
さて、ここからバスに乗ってジェロニモス修道院に向かう。

 

 

 

ポルトガル紀行 14

ポルトガル5日目
      リスボン アルファマ地区

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シントラから30km、バスでおよそ30分でリスボン市内に着く。
ビルや壁には写真のようなディスプレイというか、落書きというか絵や文字がよくかかれている。日本の歩道橋や高速の壁にあるようなもの。それより少し上手かな、という感じ。中には依頼して壁に描いてもらうものもあるらしいが、写真にあるのは勝手に描いたにちがいないと思う。
ゴミは道路にある大きなコンテナに入れて回収するようだ。

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日本語のお店の名前もある。これは「飛鳥」。Assukaと書いてある。日本食のレストランらしい。
私たちが入ったレストランは、「システルナ(CISTERMA)」という名前のお店。

お昼時なので、グループらしい人たちが並びのレストランに入ろうとしている。
ここはそういった通りなのだろう。
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お昼のメニューは、
サラダ、
豆の前菜、
シーフードリゾット、
カスタードクリーム、
最後にコーヒー。

周りのテーブルがどんどん埋まってくる。外国人がよく来るお店のようだ。

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近くに止まっていた車の中に、日本車があった。左がマツダ。右が三菱。

食事の後は、アルファマ地区の散策。リスボン市内地図2

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IMG_8836ここは1755年のリスボン大地震の時に被害にあわなかったところ。 狭い路地、急な斜面が当時のままに残って、観光地としての現在ある。
上の写真右は共同の洗濯場らしい。
ポルトガルに長く在住しているガイドさんからの説明。この地も二十年もすれば、すっかり景観が変わりますよと言う。「開発」が進んでいるんだ。

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左の写真のようなお土産物などを売っているお店の一つで、現地のガイドさんの案内で、フリー乗車券を買う。それが上の「セッテ・コリーナシュ」という名前のカード(写真はその裏表)。
ミナピタカードぐらいの大きさ。薄ペラい感じがするが、ちゃんとIC内臓で、最初に使った時から24時間使用できるというワンデーカード。バスも地下鉄もケーブルカーもOKという、観光客には大変ありがたいカード。

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オープンカフェで楽しむ人達。
でも「ポルトガルの人ではありませんよ、みんな観光に来ている外国人です」と現地ガイドさん。

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工事中の路地、日本で言う「白バイ」の警官。観光の街なんだなあ、と思う。

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港にあった「タバコ販売所」。
TABACO という文字を発見して写真に撮る。

タバコはよく知られているように、原産地は南米のアンデス山脈。15世紀にヨーロッパに伝えられ、全世界に広まっていった。
タバコという言葉そのものの由来には諸説あるようだが、日本語の「タバコ」の直接の由来は、ポルトガル語やスペイン語の「tabaco」であることは間違いない。
タバコを吸わない私には気がつかなかったが、ポルトガルでは厳しい禁煙法が施工されているようだ。レストランやバル、病院、職場、学校、老人ホーム、美術館、博物館などあらゆる公共空間で禁煙が義務付けられいるそうだ。だからタバコの煙に悩まされることが全くなかったのだ。

アルファマ地区から歩いてバイシャ地区までやってきた。ここからバスに乗って「サン・ロッケ教会」に向かう。