ドイツグリム紀行22 補足

グリム兄弟がめざしたこと ー ドイツ語辞典

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これはグリム兄弟が作ったドイツ語辞典である。

インターネットで「福岡大学図書館報」という記事を見つけた。それはこんな文章から始まっている。

 「”DEUTSCHES WORTERBUCH VON JACOB GRIMM UND WILHELM GRIMM“という極めて簡素なタイトルが付された巨大な辞典、それが、1838年に着手されてから1961年に一応の終巻が配本されるまで、実に123年という時間が編集作業に費やされた『グリムのドイツ語辞典』(全16巻33冊)である。・・・・・」

そして最後にこう書かれている。

「余談であるが、Frucht(果実)を引くと11行目にアステリスクがついており、「この語をもってヤーコプ=グリムは残念ながら永久に本著のペンを擱かねばならなかった。そこまで書かれたFの残りは私の仕事である-ヴァイガント」と欄外に注釈がある。本文中でこのように時々「私」が顔を出すのも、この辞典のユニークで味のあるところである。そして私は、上記のような箇所に出会す度に膝を正し、グリムという巨人を偲ぶ。
                   (永田善久 人文学部 講師)」

http://www.lib.fukuoka-u.ac.jp/know/kanpo/no078/7801.html

私はこのツアーに行くまでは、グリム兄弟がドイツ語の辞書を作ったことは全く知らなかった。ドイツ語の辞書作成はFの途中でヤーコブが亡くなり、兄弟の手では完成しなかった。そのあと志を次ぐ人によって作業が行われ完成したのは123年後だというから驚く。
またドイツ語を習ったときに出てくる「ウムラウト」と言う言葉、これもグリム兄弟の兄ヤーコブの造語だそうだ(Wikipediaより)。うーん、すごい人だ。
ツアーに行かなかったら、絶対知っていなかっただろうと思う。

さて、グリム童話について知ったことをまとめておこう。

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最近グリム童話の本がよく書店にでている。テレビなどでもグリム童話を話題として取り上げた番組もよく見る。

左の本には、ドイツの本の挿絵がふんだんにあり、見て楽しむことができた。松本侑子さんの手による「兄さんと妹」が再話がのっている。表紙の赤ずきんちゃんがかぶっているものは、シュパルムシュタットでみた「赤ずきん」だ。

さて、グリム兄弟はどうして民話などを採話して、本にしたのだろうか。
諸説あるらしいが、私が知ったことを書いておこう。

松本侑子さんの資料から紹介すると、

「兄弟はカッセルに帰った1806年(注:兄ヤーコブ21歳、弟ヴィルヘルム20歳)ごろから、ドイツの童話の収集を始めている。ドイツの領邦が、フランスに侵略された時代に、ゲルマンの民話を集めて民族の文化的な統一意識と誇りを持とう、ゲルマン民族のアイデンティティを追求しよう、という意識が、彼らだけでなく社会全体にあったのだ。
 恩師ザヴイニーの友人だった詩人クレメンス・ブレンターノ(1778〜1843)もまた、ゲルマン民族と歌謡を集めた「少年の魔法の角笛」という三巻本を1806年から8年にかけて出している。ゲルマン民族の過去の文化を知ることで、独自性と誇りを自覚させたいという願いを込めた仕事だ。ヤーコブとヴィルヘルムは、学生時代からプレンターノと面識があり、この本の編纂を協力した。弟のルードヴィルヘルムは画家として口絵も担当しているのだ。兄弟はこの仕事を通じて、ますます古い時代の民話、メルヘンの収集に関心をもっていく。・・・・・」

「兄弟は聞いた話をそのまま文字にしていない。当時わずか20代だった独身青年の愛国的な価値観にもとづいて「創作」されている。・・・・そのころドイツという国家はまだなく、多数の領邦に分裂していた。フランス革命後はナポレオン軍に侵略、支配され、兄のヤーコブはフランス軍の通訳として働いた経験もある。そんななか、彼らは弱小ドイツの分裂した地方を一つにして、富国強兵の近代統一国家を造ろうと考えたのだ。そのためには、同じドイツ語と民話をもとに文化的な統一をなすべきだ、そのためには家庭はどうあるべきか、子どもはどうあるべきか。それを「家庭と子どものメルヘン」は意識している。つまり近代的な家族、その家庭医いるべき女。国にとって役立つ子どものためのおとぎ話である。初版以降、手が加えられたことは前記の通りだが、具体的には、女性を家に押しこめ、従順と無口を是とする表記が増えていく。愛国主義者、生粋のゲルマン国粋主義者である兄弟、しかも女性と一度も親しくつきあったことのない若者の憧れる女性観、理想とする家庭像に、私は多少とも歪なものを感じ、関心を持った。・・・・」

そんな松本侑子さんのグリム童話への関心が一冊の本になっている。

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それが左の写真の本、松本侑子さんの手によるグリム童話のパロディ。
目次を見るだけでも刺激的だ。

・眠り姫が性に目覚めるとき
・白雪姫の魔女裁判
・おませで可愛い赤ずきん
・シンデレラと大足の姉たち
・青髭の失楽園
・男の国へいって死んだ人魚姫
・マッチ売りの少女娼婦

7つの物語が載せられている。
松本侑子さんの疑問がパロディとなった作品。この本の後書きには、「表現の自由と古典文学、文学のあり方」について松本侑子さんの考えが書かれている。

グリム童話やグリム兄弟に感心を持った人は機会があれば読むといいと思った本。

グリム兄弟が童話・メルフェンの採話をはじめた背景は理解できた。
ではどのようにして採話していったのだろうか。

私流にまとめてみた。
童話やメルフェンの収集というと、おじいさんやおばあさんが話す昔話を聞いて回って収集する、というイメージが一般的だがグリム童話はそうではない。
グリム兄弟が採話した人たちは、もちろん年配の人もいるが、若い人たちも多い。
そしてドイツ人からだけに限って話を聞いたのでもない。
たとえば当時20代のフランス系の若い娘さんであったり、兄弟の身近にいた友人や知り合いから話を集めている。しかも教養のある市民階級の女性たちであり、学者や牧師の夫人も含まれている。古い本を見て集めた物語、知人たちに手紙で協力を頼んで集めたおとぎ話もある。これはドイツのハインツ・レレケという人たちが、グリム童話について調査してわかったことだ。200年も前の資料を丹念に調べたのだろうと思う。またそういった昔の資料が残っているのもドイツらしいと私は思った。

民話は国境を越える

「古い民話を集めて本にすることで、ゲルマン民族の心の拠り所としよう」という考えと、ドイツ人以外の人達の話を聞いて話を集めて本にするのとは矛盾しないか?
その質問に松本侑子さんは慶應義塾大学の宮下啓三教授の考えを紹介している。
「当時の兄弟はまだ20代半ばで経済的に困窮していた。手元に集めたメルヘンを出版することで生計を立てる必要があったこと」
「ドイツとフランスといった欧州各国は距離的にも文化的にも近く、人々は自由に行き来していたのであり、童話も自由自在に国境を越えるところに素晴らしさがある」

「民話は国境を越える」という言葉にインパクトを感じた。
なるほどツアーでドイツを移動するとひとつづきにつながっているということを実感する。どこに国境や市や町の区切りがあるのだろう。200年前のヨーロッパは地続きで国境も変化していた。そこで生活する人々も移動するし、昔話やおとぎ話も一緒に移動したことも想像に難くない。
グリム兄弟には今のドイツという国よりも、もっと広い形でのゲルマン民族という概念から民話を集めたのだろうと想像できる。

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左の本は、上の「絵本新編グリム童話選」を書名を変えて文庫本にしたもの。「絵本」にある挿絵が省かれているが、それ以外の中身は同じもの。
この二冊の本の後書きが充実している。たとえばグリム兄弟が話を聞いた女性たち6人のことが詳しく記されている。また巻末のグリム兄弟の年表は、ドイツから帰ってきて読んでみると時代と兄弟の動きがよくわかるものだった。一読する価値はある。

さて、グリム兄弟の晩年はどのようなものだったのだろう。
松本侑子さんの資料を紹介する。

「1841年、兄弟はベルリンへ転居する。独身のヤーコブは、ヴィルヘルムの妻、子どもたちとともに大家族で住んでいた。・・・(略)・・・ベルリン大学で教鞭をとったのはヤーコブが7年間、ヴィルヘルムは11年間である。兄は神話学、法律、ドイツ語文法などを教え、弟はドイツ中世文学を講じた。しかし二人の仕事は講義だけではなく、多岐に及んだ。グリム童話集の高い評判と重版、古代ゲルマンの研究、ゲッティンゲン大学7教授免職事件によって全土的な有名人なっていた二人は、多忙な日々を送る。アカデミーの会員としての職務、王侯貴族との社交、宮廷での国王との面談、さらに大著におよぶドイツ語辞典の執筆と編纂も続けていた。とくにヤーコブは、ドイツ文学者会議の議長を二度つとめ、今の国会にあたる国民会議の議員にも選ばれてからは公務も加わった。彼はこうした活躍とゲッティンゲン大学での自由を求める活動が評価されて平和勲章を授かっている。
 当時の議会の課題は、小さな領邦国家に分裂していたドイツの統一、立憲君主制の制約はあったが自由を保障する国家憲法の制定だった。18世紀も20世紀後半も、ゲルマン民族の統一が課題であった史実は興味深い。グリム兄弟は、古代から脈々と続くゲルマン民族の言語、昔話といった文化を共有する人々は、一つの国に所属すべきであると考えてきた。彼らが執筆したドイツ語辞典もまた、多数の領邦国家の国境を超えて全ドイツで通用するものである。あくまでも兄弟は文化的な意味合いで統一を目指したと思うが、しかしこの主張は後にヒトラーによってゲルマン民族高揚、多民族蔑視に悪用されたり、戦後は東西ドイツ統一の政治的スローガンを結果的に援用したりと、二人の意図とは微妙に異なった動きをしたのである。・・・・・」

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上の写真はシュパルムシュタットの博物館で買った「赤ずきんちゃん」の人形。
赤ずきんちゃん、赤ずきんちゃんのスカートをひっくり返すとおばあさんが登場、おばあさんの後ろ姿はオオカミ、よく考えてある。つくりも丁寧であった。

このほかに買ったお土産は、定番のチョコレート。そしてドイツといえばダルマイヤーのコーヒー、そしてドイツ語の世界地図など。自分の国が中心に書かれた世界地図はおもしろい。中国で買った地図は中国語、オーストラリアは南北反対など、お国柄が表れている。

さて、21世紀の今も語り継がれているグリム童話。作者のグリム兄弟の最晩年は、

「ヴィルヘルムは、まだ20代だった1812年に初版を発行したグリム童話集を、重版のたびに改訂してきたが、1857年にも第7版を出し、2年後の1859年に73歳で亡くなった。日本で明治以降、翻訳されてきたのは、彼が最後に手を入れた第7版である。
 子どもの頃から弟と励まし合い、ほとんど一緒に生きてきたヤーコブは死に悲嘆するが、幸い、ヴィルヘルムの妻ドルトヒュンと子どもたちと以前と同じように暮らした。ヤーコブは生涯独身だったが、料理をはじめ身まわりの世話を献身的にしてくれたドルトヒュンの存在は大きかったに違いない。・・・・(略)・・・1863年、ヤーコブは78歳で逝去、マテウス教会墓地に埋葬された。隣には、苦難の多かった生涯において、研究、研鑽をともにした弟ヴィルヘルムの墓がならんでいる。」

と松本侑子さんは書いている。知ることの多かったこの「松本侑子さんと行く世界名作ツアー『ドイツ・メルヘン街道とグリム童話紀行』」のツアー。ブログ「ドイツグリム紀行」もこの辺で中締めとさせていただく。松本侑子さんの資料紹介のブログになったみたいだが、この資料がなかったらブログを書き続けることもできなかったのは事実。松本侑子先生に感謝したい。ありがとうございました。
松本侑子さんの体調も戻られたようだ。ツアー途中で体調を崩された方も元気になられただろう。私も来年のツアーに向けて体力づくりをしよう。
松本侑子さんのブログのアドレスは以下の通り。

http://yuko-matsumoto.cocolog-nifty.com/blog/

 

 

ドイツグリム紀行21(6日目の2)

ゲーテハウス そして日本へ

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img_20161102_0001-%e3%83%90%e3%83%bc%e3%82%b8%e3%83%a7%e3%83%b3-2ここはゲーテハウス。
上の写真は入館のチケット、
ERLEBENとはドイツ語で体験という意味らしい。左はもらったパンフレット。
インターネットのコトバンクというサイトから説明を引用する。

「ドイツ中西部のフランクフルト(Frankfurt am Main)市街中央、レーマーベルク(広場)の北西約500mのところにある、ドイツを代表する文豪ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe、1749~1832年)の生家を復元した建物。ゲーテはここで16歳まで暮らした。『若きウェルテルの悩み』などのいくつかの初期の作品は、この家で執筆された。ゲーテの生家があった建物は第二次世界大戦で破壊されてしまったが、戦後、もとの18世紀の典型的な中産階級の住宅が忠実に復元され、3階のゲーテの書斎には、ゲーテの青年期当時の後期バロック時代の家具や調度がしつらえられて、ゲーテに関わりの深い当時の絵画などを展示している。また、隣接してゲーテ博物館(Goethe-Museum)があり、併せて訪れることができる。◇ゲーテハウスとゲーテ博物館は、非営利の自由ドイツ司教座財団によって維持・管理されている。」

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ゲーテの机。ここで「若きウェルテルの悩み」を書いたのかもしれない。なおゲーテは立ちながらも文章を書いたらしい。写真がその時の立ち机。

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豪華な調度品が目を引くが、私が気に入ったのは、暖炉と柱時計。
ドイツの冬は寒いから暖炉は必要だろうと思う。ゲーテが住んでいた1800年頃と いえば日本では江戸時代末期、そんなときにこんな立派な暖炉が各部屋にあったのかと思う。また大きな柱時計、ゲーテハウスには時計板が三つもあるような精密時計のような柱時計もあった。ドイツの機械じかけの精密さは、これまでのからくり時計などの見学でよくわかっていたが、ここゲーテハウスの時計を見てさらに感心する。

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再現された家ではあるが、ゲーテの当時の生活が体験できるハウスだった。

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ゲーテハウスの窓から見える不思議なモニュメント。これは一体何なのだろう。 img_7394

ベインとが塗られていて、抽象芸術の作品のように見えるが、実はベルリンの壁の一部なのだ。

ベルリンの壁の崩壊があったのは、1989年の11月。今から約30年ほど前になる。
その壁の一部をここに持ってきて保存しているそうだ。
写真に写っている面には、絵が書かれているが裏側はコンクリートの壁がそのまま残っていた。
ゲーテハウスのそば、フランクフルトの中心部にベルリンの壁の一部が残されているなんて。ガイドさんの説明がなければ知らないままに終わっていただろう。

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もう一つ。そばにあった黄色い直方体の物体。拡大してみよう。
そう、ドイツの郵便ポストだ。ドイツの郵便ポストは黄色なのだ。小型のものもあった。それが下の写真。

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この塔はエッシェンハイマー塔。 15世紀のもので、街を守るための城壁の一部。防御塔としての役目を持っていたらしい。かつての城壁はすべて取り除かれ、今残っているのはこのエッシェンハイマー塔だけ。フランクフルトの町が大きくなっていったので、いつしか町の中央部に位置するようになっている。

ゲーテハウスの見学を終えた私たちは、飛行場への出発までの自由時間を使って、ショッピングと散策に出かけた。

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ここは画材屋さん。おみやげに水性絵の具になる色鉛筆を買う。
万年筆、ボールペン、鉛筆などの文房具もあり、鉛筆の書き味を試していると、ドイツ語で「どうぞさしあげます」(と思う・・)と笑顔で言われた。ダンケシェーン。

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お腹が減ってきた。昼食は各自でとることになっている。
私は以前から海外での日本食を食べてみたかった。ガイドさんに聞くと、デパートやスーパーに日本食を用意しているところがあるらしい。でも、もう少し本格的なものをと思って聞くと、宿泊しているホテルのそばにある「いろは」を紹介してくれた。
上の写真が日本食のレストラン「いろは」。ドイツ語てIROHA。

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スタップは日本人。日本語で注文を聞かれ、日本語で答えることのできる快感。
味も日本で食べるものと全く変わらなかった。ドイツ人のサラリーマンたちが次から次へと入ってきて注文している。お箸の使い方もじょうずなものだ。

日本食を食べて元気を出して、さあ日本に向けて出発。

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日本まで11時間余りのフライト。
熱はないが体のだるさ、喉の不快感が残る。ドイツで買った薬が効いているのだろうか。喉は少しましになっているが、、、、。
帰りは眠っている方が多かった。座席が通路側にあったのがありがたかった。

長いフライトで見た映画は一本だけ。
「きみがぼくを見つけた日」(The Time Traveler’s Wife)。時間トラベルのできる男性とのラブロマンス。タイムトラベル物の映画は私の好みだが、時間が過去・現在・未来と本人の意志と関係なく展開していくのが少し複雑 。画面も美しく、主演のレイチェル・アダムスは私の知らない女優さんだが、魅力的な演技だった。SF映画としてはつっこみどころの多い作品だが十分に楽しんだ。日本に帰ったから調べると、原作があるらしい。読んでみようと思う。

さて、お昼ごろに羽田に到着。関空行きの飛行機を羽田で待つことができるのがよかった。さて初めてのドイツ旅行も無事日本に到着。今回は私たちのように体調を崩した人が多かったようだ。
勉強したことも多かった。グリム兄弟について知ったことも多い。次の記事にはそのことについて書いておこうと思う。

 

 

 

ドイツグリム紀行20(5日〜6日目)

フランクフルト

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ブレーメンからフランクフルトに戻ってきた。
フランクフルトはドイツに到着した時は通過しただけだったので、市内を見学していない。
コースでは日本に帰る最後にこの町を歩くことになっている。
あらためて地図を見ると、ブレーimg_7042メンの音楽隊に関係するヴェーザー川も、ローレライのライン川もドイツを縦断して北海に注ぎ込んでいることがよくわかった。

さて、グリム兄弟とフランクフルトはどんな関係があったのだろう。

グリム兄弟はフランクフルトの近くにあるハーナウで生まれた。(左の写真は私が訪れたハーナウにある兄弟の像)。
兄弟はカッセルに30年ほど住んだあと、カッセルから40km程度はなれたゲッティンゲンに移る。そしてゲッティンゲン大学で教鞭をとるようになる。
ヤーコブ52歳、ヴィルヘルム51歳の時(1837年)「ゲッティンゲン大学7教授罷免事件」がおきる。その様子を松本侑子さんの資料より引用すると、

「ゲッティンゲンで二人はたゆまぬ研究、学生への教育指導、図書館管理という多忙な生活に入るが、しかし時代の激変は、またも兄弟に襲いかかる。
このころ、絶対君主制を固持しようとする王侯貴族と、自由を求める富裕で教育のある市民階級との対立が激しくなってきた。学生運動が起き、労働者、職人、農民も、市民としての権利を要求して暴動や集会も開かれた。そうした流れを受けて、ゲッティンゲンのあるハノーファー王国では、国民の議会参加を認めた進歩的な憲法が制定される。それまでは君主の権力は絶対的なもので、臣民には、それに異議を唱える権利はないとされてきたが、新憲法のもとでは、支配者も法的な拘束を受けるようになった。しかし王が交代すると、新しい国王は、統治者に有利な旧い憲法に戻す宣言を出したのだ。・・・(略)・・・
慣習法としての法律を研究し学生たちに講じてきたヤーコブは、君主による横暴を看過することができなかった。
52歳のヤーコブと51歳のヴィルヘルム、そしてほかの5名の教授は、国王に反対する声明を提出した。それによって首謀者の一人とされたヤーコブは教授の地位と職を奪われ、さらに三日以内の国外退去処分を受ける。首謀者ではなかったヴィルヘルム、は国外退去はまぬがれたが、やはり教授職を解かれた。
 これがゲッティンゲン大学7教授罷免事件だ。ヤーコブら7教授を支援する人々の輪はドイツ各地に広がり、職を失った二人は、ベルリン大学、ミュンヘン大学からも教授として招かれた。ゲッティンゲン大学の学生たちもヤーコブを支持し、デモまで行って解雇処分への反対を表した。ハノーファー王国を去りカッセルへ帰っていくヤーコブを追って、学生たちは松明をかかげて行進し、ヘッセン国の国境まで見送ったのであった。グリム兄弟というと、日本では童話のイメージが強いが、ドイツではこの一件によって民主化を求める国民的な英雄としても歴史に名を残している。」

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グリム兄弟はベルリン大学で教授として迎えらる。
そして1846年にフランクフルトで開かれた「ドイツ文学者会議」で、ヤーコブは満場一致で議長に選出されている。
また、1847年のフランクフルト国民会議(ドイツ憲法制定会議)でも代議員に選出されて、憲法草案を提示している。(左の写真はWikipediaの「フランクフルト国民会議」の記載より引用)

グリム兄弟の兄、ヤーコブにとってフランクフルトは重要な場所になっている。

私たちはそのような町フランクフルトを夕方に散策した。

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ここは聖パウルス教会。なんとフランクフルト憲法を審議した場所とか。ヤーコブがここにいたかもしれない。
レリーフはケネデイ大統領。「ここは自由が誕生した場所だ」と1963年にここでスピーチをしたそうだ。

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フランクフルトの町に夕闇が迫ってくる。 私たちは市内のレストランに入る。

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ツアー最後の夕食なので、みんなゆっくりとお酒やジュースなどを飲みながら食事をし、おしゃべりを楽しむ。このツアーは食事が美味しいのでリピーターも増えそう。
最後の写真は「聖ニコラス教会」の夜景。

6日目の朝

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このホテルは建物は古いが、内装や調度品は歴史を感じさせながら、なおかつオシャレ。 img_4101

ガーデンテラスではサラリーマンらしい人が朝食を食べている。 少しはなれたテーブルではブレックファスト・ミーティングあるいはパワー・プレックファストのような朝食風景が見られた。スーツ、ワイシャツがピシッと決まった人たちのグループだ。

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朝食をすませ、私たちはフランクフルトの朝を散策しながら、「ゲーテハウス」に向かう。

左はゲーテ広場にあるゲーテ像。

グリム兄弟とゲーテの関係はどうだったのだろう。松本侑子さんの資料を見てみよう。

「1809年、弟のヴィルヘルムは、ワイマールにゲーテを訪問している。まだ一冊の本も出していない23歳のヴィルヘルムが、60歳のゲーテに会えたのは、恩師ザヴイニーがゲーテに宛てて、グリム兄弟が優秀であること、古代ドイツ文学を収集していることを伝えてくれたからだ。ゲーテはヴィルヘルムの取り組みを激励し、優しく対応してくれ、彼は大いに感激する。晩年のゲーテは職業面では老獪で煮ても焼いても食えない老人という観があるが、利害関係のない年若い文学青年には、警戒心を解いてざっくばらんに接したのであろうか。・・」

今日も良い天気だ。青空の中、ガイドさんの市内観光の説明を聞きながら、ゲーテハウスに向かう。