スペイン「カルメン」紀行20

パリへ

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バルセロナのブエリング航空にてフランスのパリ、オルリー空港までの1時間45分の旅。こんな後ろから乗る搭乗のしかたが体験できて、旅はほんとに楽しいなあと思える瞬間。

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バスの車窓からエッフェル塔の姿が見えてきた。それにしても車、車、車。
セーヌ川沿いに走るバスから見えたのは、なんと「自由の女神像」。
フランスがアメリカに自由の女神像を送ったことへの返礼として、パリに住むアメリカ人がおくったということだ。

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午前中のパリは曇り空だったのに、私達が来るのに合わせたかのように青空になった。青空に白い雲。エッフェル塔の優雅な姿。そう、ここはパリだ。

_MG_8635そしてこれが凱旋門。こんなに大きなものだとは知らなかった。高さ50m、幅45m、奥行き22m。通天閣の高さの半分だ。

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凱旋門を警備している警察官の手には自動小銃らしいものが。
空港の警備の警官も同様に自動小銃をもっていた。しかも引き金に指がかかっているのではないかと思うような持ち方だったので不気味さと怖さを覚えた。

この時は不安感だけがだったが、日本に帰ってきてからパリでのテロ事件の報道があり、その事件がもっと早くに起きていたら自分たちが巻き込まれていたのではと恐怖感がわきあがった。テロの被害にあった人たちへのご冥福を祈りながら、なんとかならないものか、どうしたらいいのかと思う。

ホテルに荷物をおいて夕食前に散歩。見えてきたのはサン・ラザール駅。
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2階建ての列車。大阪の近鉄特急や阪急電車にも2階建ての電車はあるが、こちらのほうがおしゃれなデザイン。さすがフランスと思ってしまうのは単純かな?

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この旅も最後の夕食。フランス・パリのレストランで円卓を囲み、美味しいお食事で友好をあたためあう。サービスで出た生牡蠣のおいしいこと。

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生牡蠣からデザートまで、しっかりと堪能しました。パリの味を。

ツアー最後のホテルは、
PARIS MARRIOTT OPERA AMBASSADOR HOTEL

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小公女の本にでてくる屋根裏部屋を思わせるような角が出っ張ったお部屋。
窓から中庭を見ると、今にも窓越しにインドの紳士ことキャリスフォードさんが贈り物を持ってやってきそう。

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ヨーロッパのホテルの多くは部屋に電気ポットがない。お茶を飲もうにも部屋の中ではお湯をわかすことができない。私たちは日本で買った電気ポットを持っていくことにしている。だからいつでも日本茶でもカップラーメンでもコーヒーでも飲める。

 フランスのこのホテルアンバサダーには電気ポットがついていた。日本から持ってきたコーヒーでリラックスタイム。
明日は最後の日。パリのルーブル美術館へ行こう。

 

 

スペイン「カルメン」紀行19

パエリアとピカソとタパス

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 バスに乗ってやってきたのは、海岸沿いのレストラン。

今日はスペインの旅の五日目。ちょっと振り返ってみると、

・日本からスペインまでで1日を費やした。

・アンダルシアの白い街「ミハス」、グラナダの「アルハンブラ宮殿」を観光したのが2日目の事だった。

・3日目はゴルドバへ行って「メスキータ」と「花の小径」の見学。そのあとバスに乗ってセビリアへ移動。
そして夜には「フラメンコショー」。

・明けて4日目はセビリア市内の観光、カテドラル、ヒラルダの塔、スペイン広場、そしてカルメンのタバコ工場だったセビーリア大学。それから飛行機に乗ってバルセロナ。

・5日目がガウディに関する建築物の見学となったわけだ。
さあ、今日のお昼は地中海料理のようだ。

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スペインといえばパエリア。ここで、カルメンの語り手である考古学者とドン・ホセが食べたであろう本場のパエリアを食した。 パエリアとはどういうお料理なのだろう? 
ウィキペディアをみると、

 パエリア、パエヤまたはパエージャ(バレンシア語:paella)は、米どころとして知られるスペイン東部バレンシア地方発祥の、米と野菜、魚介類、肉などを炊き込んだ料理。スペインを代表する世界的に人気の料理の一つで、本場バレンシア地方ではパエリアの祭りもある。
 本来「パエリア」は、バレンシア語でフライパンを意味する。バレンシア地方の外にこの調理器具を用いた料理法が伝わるうちに、調理器具よりも料理の名称としてスペイン人全体や他国民に浸透していった。パエリアを炊く人のことを女性なら「パエジェーラ」(paellera)、男性なら「パエジェーロ」(paellero)と呼ぶ。
 パエリアの起源は、スペインに稲作をもたらしたアラブ人に由来する。西暦9世紀以後、アル=アンダルスのムスリムの間で作られてきた。ピラフと同様にその歴史は古い。 つい近年までは、オレンジの果樹園で働く農民たちが、オレンジの木の下でパエリアを昼食として調理する姿が頻繁に見かけられたという。

なるほど、スペインの名物パエリアも、イスラムとの歴史が織り込まれている。 さて、この黄色いお米は「サフラン」による着色による。
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左の写真はセビ−リアのトリアナ地区にあったマーケットで買ったサフラン。

そもそもサフランとはアヤメ科の多年草植物のめしべを乾燥させたもの。
古くはギリシャが原産地とも言われており、紀元前からそのめしべが香料・染料として使われていた。
ヨーロッパでは王族だけが使うロイヤルカラーとされた時代もあったという。
そのサフランをたっぷり使ったパエリアは目も舌も楽しませてくれる料理だった。

松本侑子さんの「ヨーロッパ物語紀行」では、次のように書かれている。

「パエリアに欠かせない米とサフラン・・・。スペインの稲作は、灌漑技術をもっていたイスラム教徒が伝えた。米に黄色い色と芳香をつけるサフランは、かつて同じ重さの黄金よりも高価だった香辛料で、今ではスペインが世界最大の産地だ。」

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レストランの裏側は、地中海。海に浮かぶヨット。浜辺を散策する人、風景画を見ているようだ。

さて午後は自由時間。
私たちはピカソ美術館に行くことにしていた。
昼食の後に、ホテルに戻ってタクシーに乗ることにした。ドライバーが女性だった。ガイドさんに頼んで美術館の直ぐそばまで案内してもらうようにお願いする。車一台が通れるぐらいの石畳の道を行く。両側の歩道は多くの観光客とお店がいっぱいだった。美術館に横づけはできず、美術館へ行く路地のような道の前の交差点でおろしてもらう。

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美術館は写真撮影禁止のため、写真は撮れなかった。上と左の写真はガイドブックのもの。美術館はガイドさんの行っていたように、多くの外国人観光客が列を作っている。左の写真のように待つこと約1時間。
下の写真が唯一の一枚。中に入ったところにあるミュージアムショップの前。

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ここに来たかったのは、前々からピカソのデッサンについて知りたかったからだ。
ピカソ=抽象画 というふうに学校で習っていて、ピカソの絵といえば顔が重なったり、眼や口が変なところについていたり、というふうな知識しかなかった。でもある時、ピカソが抽象画を描いていく時には、精密な写実的な絵が先にあって、それがデフォルメされて現在のような絵になった、その制作過程のビデオを見たという人の話を聞いた。
それ以来ピカソの絵の変遷について、自分の目で確かめる機会がないものかと思っていた。

ここの「ピカソ美術館」にはそれがあった。
なるほど、ピカソの写実的な絵を見て、基礎の素晴らしいデッサン力があることがよくわかった。長い絵画の技術史の上に、ピカソの発想が花開いたのだと思った。

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ピカソ美術館ではもっと時間がほしかったけれど、夕食はみんな集まってレストランに行くので、街を見物しながら(スリに注意と何回も言われているので、バックをコートの下に隠して)ホテルに帰る。

夕食予定のレストランの下見を兼ねてそこの喫茶でコーヒーを飲むことにした。

スペインの人が飲んでいるコーヒーが飲みたかった。メニューを見てもスペイン語がわからない。横についている英語で判断するしかない。

XXXXX・・・・Espresso
XXXXX・・・・Espresso size coffee with very little milk
XXXXX・・・・White coffee
XXXXX・・・・Cappuccino
XXXXX・・・・Irish coffee

こんな感じで文字が並んでいた。うーん、普通のコーヒーはどれなんだろう。
スペインの人が飲んでいるコーヒーはミルクたっぷりのコーヒー。二番目はわざわざvery little milk と書いてある。そうすると三番目のWhite coffee か? と考えてこれを注文する。
“Espresso and White coffee please.”  
エスプレッソは通じたみたい。でもホワイトコーヒーが通じない。しかたがないのでメニューを指差す。若い男のウェイターさんは、ニッコリ笑って
”White Coffee” と言って了解したという表情。

うーん、どこが違うんだ。

スペイン最後の料理は「タパス」料理。

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タパスと言うのは小皿と言う意味。 そしてタパス料理というのは、小皿料理の総称。生ハムやチーズの他にいろんな食材がタパス料理として親しまれているそうだ。日本で言えば居酒屋さんで各自がアルコールのあてとしてちょっとした料理を頼むようなものかもしれない。レストランの2階では、バースデーパーティーをやっているようで華やかで賑やかだった。こんな食事も何か楽しい。

 

 

スペイン「カルメン」紀行18

グエル公園

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ここはガウディが設計した公園。 そのシンボルとも言えるトカゲ?、いいえドラゴンのモニュメント。
グーグルの空からの写真で見てみよう。
私達が行ったのは、真ん中に見える小判型の広場の周辺。そこがグエル公園。

グエル公園地図

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その小判型のグランドのような広場の周りのテラスが、青などの色とりどりのタイルで装飾されていることで有名。綺麗な色タイルは、実は再生されたもの。つまりタイル工場などで不要品となったものをつかっているらしい。それで建設費用の軽減をはかったそうだ。ガウディはエコも視野に入れていたのかもしれない。

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初めて見る公園。なんとも不思議なオブジェのような建築物におどろく。上の写真の柱の間は車が通れるように設計されていたとか。

さて私の頼りの「るるぶ」を見てみよう。

「1900年から1914年、ガウディが独自の建築様式を完成させたころの作品。ガウディのパトロンであるグエル氏の依頼で、市場や学校までを擁する60戸の田園住宅街として建設されたものの、住居が2戸しか売れず計画は失敗。後に公演として開放された。街の山の手に位置する広大な敷地内には、市内が見渡せる広場のほか、ガウディがかつて暮らした住居があり、ミュージアムとして残っている。これはガウディが病床の父のために購入し、1925年にサグラダ・ファミリアに引っ越すまで暮らしたと言われている」。

グエル公園のテラスからは建設中のサグラダ・ファミリアが遠くに見える。

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当初の計画通りにいかなかった原因は、もちろん予算の問題が大きいが、1つはロケーションの問題と言われている。 私達もここまで来るにはかなり時間がかかった。つまり街の中心部からの距離の問題。そして急な斜面。現代では自動車があるからあまり感じないけれど、徒歩や馬車ではきつかったことは想像できる。
街づくりは素晴らしい建物の設計だけではなく、総合的なバランスの問題があるのだろう。

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これは列柱ホール。設計では市場になる予定だったところ。
ドーリア式の柱と天井の装飾タイルが有名。
四季をあらわしている円形のタイルは、ガウディの右腕として活躍したジョセップ・マリア・ジョジュールの作品。

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鉄のフェンス。
ガウディは鉄の細工には素晴らしい才能を発揮したようだ。
ガイドさんの説明では、ガウディの父親は銅板器具の職人であり、代々その仕事を引き継いできたそうだ。ガウディはそのことに誇りを持っていたという。

日本に帰ってから調べてみると、三次元的に物事を見る、空間把握の能力は、銅板器具職人に必要不可欠な能力であったらしい。ガウディの建築に常識を超える空間利用があるのはそういう背景があったからなのだと感じた。

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それにしても人、人、人、ガウディの人気は相当なものだ。 IMG_8917

サグラダ・ファミリアにある資料には写真のような説明があった。

Antonio Gaudi dies in a tram accident.

詳しく調べてみると、1926年6月7日夕方、ガウディはミサに向かう途中に路面電車にひかれた。身なりが貧しかったのでホームレスあつかいされ、病院への搬送も遅れ、だれもガウディと気が付かなかったという。知人の神父が帰ってくるのが遅いのでさがしまわり、病院で発見したそうだ。
ガウディであることに気づいた病院によって救急措置がとられたが、3日後に73歳で息を引きとった。彼の遺体はサグラダ・ファミリアに埋葬されている。

もし彼が生きていたら、歴史のIFではあるが、サグラダ・ファミリアの建設と共にもっともっと素晴らしい建築物がこの世に生まれていたかもしれない。

そろそろお昼の時間が近づいてきた。
今日のランチはなんだろう?

 

 

スペイン「カルメン」紀行17

  サグラダ・ファミリア

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一度はこの目で見たかったところ、それは「サグラダ・ファミリア」。
「サグラダ・ファミリア」とは「聖家族」と言う意味。聖家族とはマリア、ヨゼフ、キリストの3人のこと。日本語で「聖家族贖罪教会」という正式名称を持つ。贖罪教会の建設のすべて財源はすべて喜捨。今は世界中からの寄付が寄せられているそうだ。
行ってみたら、ホントに大きかった。今も建設中。
建物の色が違うのは、建設時期の違いとともに排気ガスなどのためとガイドさんの説明。車の排気ガスはこんなに影響があったのかと感じた。

サグラダ・ファミリアの写真は私もたくさんとったが、いろんな観光誌や写真集に素晴らしい写真がのっているので、私が気にいった、気になったところを紹介することにする。

1.柔らかなデザイン美の生み出す空間と色彩の暖かさ。

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2.今も研究が続く建築方法。研究室や釣り構造のモデルがある。

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3.入り口中央の門の二本の柱を支える亀

亀1

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向かって左にあるヨゼフの柱をささえているのは、陸ガメ。
向かって右にあるマリアの柱をささえているのは、海ガメ。
変わらないものの象徴だそうだ。

4.斬新なオブジェ

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5.世界中からの観光客

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5.今も続く工事

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いつ完成するのだろう?というのが誰もの思い。建設当初は300年かかるといわれたそうだ。

ガイドさんの説明では、ガウディ没後100周年目の2026年をめざしているそうだ。そしてその完成予想図がこれ。

サグラダ・ファミリア1

茶色のところが現在あるもの、グレーの部分がまだ未建設のもの。 ほんとにあと10年ほどで完成するの?と思ってしまう。

サグラダ・ファミリアのなかでは、完成予想のCG映像が流れていた。その映像はこれ。

http://tabippo.net/sagrada_familia/

このホームページから完成予想図は引用させてもらっている。

6.日本語を発見

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入口近くにある青銅の扉。世界中の言葉で書かれてあるという。 日本語も発見。「われらの父」という文字があった。「わ」という文字がちよっとおかしい・・・・。

この建設には日本人も多く参加し、壁面の彫刻群や内部の装飾にもその力が発揮されていることはよく知られていると思う。

さてサグラダ・ファミリアとお別れをして、もう一つガウディの有名な作品となっているグエル公園にバスに乗って向かうことにしよう。

 

 

 

スペイン「カルメン」紀行16

カテドラル(セビーリア大聖堂)

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スペインへ持っていった「るるぶ」には次のような説明がある。

「イスラム時代に建てられたモスクを基礎にして、15世紀初頭から約1世紀もの歳月をかけて建造された大聖堂。完成までに、ファン・ノルマンやペドロ・デ・トレドなど多くの建築家が携わった。奥行き116m、幅76mのゴシック様式とルネサンス様式が混合する建物は、ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂、ロンドンのレント・ポール寺院に次ぐ規模。聖杯の礼拝堂や主聖具納室などに展示された、スペインを代表する画家たちの宗教画は必見だ」。

そう、ここもモスクがあったところにキリスト教の大聖堂を立てたもの。あちこちにイスラムの雰囲気がただよっている。しかし内部はゴシック様式とルネサンス様式が混在している。100年ほどの時間をかけて建設されているので、その時々の様式が混ざるのはしかたがないことだろう。

内部は豪華絢爛。

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たくさんの宗教画もすばらしかったが、印象深かったのが、世界一美しいと言われているマリア様の像。カテドラル内部の写真はどれもピントがボケてしまっていたのはどうして?

私がここで見たかったのは、これ。

IMG_5390四人の王に担がれている「コロンブスの棺」。

四人の王というのは、当時のスペインにあった4つの王国、カスティーリャ王国・レオン王国・ナバラ王国・アルゴン王国のことで、スペインの発展にコロンブスの果たした役割に敬意を表していると意味らしい。
ここでも「るるぶ」の説明を引用してみると、

各地を流転したコロンブスの遺骸は、米西戦争が終結した1898年にキューバの首都ハバナから運ばれてきた。新大陸を発見後、コロンブスはセビ−リアに滞在していたという。

なんとなくわかるが、少し物足りない説明。
日本に帰ってから調べてみると、コロンブスは最後まで自分が行ったところはアジア(インド)だと思っていたらしいということは知られているがその後・・・・・・

・コロンブスは1506年にスペインのパリャドリッドで亡くなり、そこで葬られている。そしてそしてその遺骨はセビリーアの修道院に収められる。
・その後、コロンブスは遺言で自分の「発見」したサント・ドミンゴに埋葬してほしいと言い残していたので、サント・ドミンゴ(ドミニカ共和国の首都)大聖堂に移される。
・フランスとスペインの間に戦争が起こり(1635年〜1659年)フランスの勝利により、サント・ドミンゴ大聖堂が立つ場所がフランス領になる。コロンブスの遺骨はスペイン領であったキューバの大聖堂に移される。
・1898年のスペイン・アメリカ戦争がおき、スペインが敗北。アメリカがキューバの管理権を得たことにより、コロンブスの遺骨はスペインに移された。
・ところがドミニカ共和国は「キューバに渡った遺骨はコロンブスの息子のもの。本人の遺骨はずっとサント・ドミンゴにある」と主張し、1992年にドミニカ共和国は「コロンブス記念灯台」を建設し、その遺骨を移したとしている。

こうしてコロンブスの遺骨はスペインとサント・ドミンゴの二カ所にあることになった。
その後、2003年にDNA鑑定がおこなわれ、「セビリーア大聖堂にコロンブスのDNAと思われる骨があった」と言われているというのがガイドさんの話。なんでもこの棺には何人分もの骨があったようで、しかもコロンブスの長男の遺骨のDNAとくらべての調査なので私もなんとなく?という気持ちになった。
コロンブスの墓1

インターネットでドミニカ共和国のコロンブスの墓を調べてみた。

1492年から500年後の1992年に建設されたといもので、
全長200mというからなかなか立派なものだ。
ある意味ではセビリーア大聖堂に負けていない。

 

http://www.ab-road.net/south_america/dominican/santo_domingo/guide/00194.html

真偽の程はわからないが、どちらの国にとってもコロンブスは大事なものになっていることはよくわかる。

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こちはらコロンブスの息子の墓。

大聖堂の床に埋葬されている。彼は古文書を多くこの教会に寄付したそうだ。親子そろって墓があるのも興味深い。
さて続いてヒラルダの塔に登る。ヒラルダというのは風見鶏のこと。

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この塔は高さ約94mの鐘楼。 イスラム時代はミナレットだった。ミナレットというのは、イスラム教のモスクに付属した礼拝時刻の告知(アザーン)を行うのに使われる塔のこと。そのミナレットは16世紀にルネサンス様式に改築され、今ではイスラム様式の特徴を持つ街のシンボルになっている。もともとは70数mの高さであったが、その上にバルコニーと鐘楼をのせたそうだ。

一番上に女性の姿をした風見鶏がのっている。
下に写真を拡大しておく。

それにしても巨大な工事だったろうと想像される。

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右の写真は形がよく分かるようにと、インターネットで探したもの。

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_MG_8213塔のバルコニーからの眺めは抜群だった。 このバルコニーままでは階段ではなくて、スロープになっている。

イスラムの時代、一日に数回あるのアザーンのたびに、この高いミナレットを階段で上がるのはたいへんなために、スロープになったとガイドさんの説明。今だったらエレベータやエスカレータにしていたのかもしれない。

このあと飛行機に乗ってパルセロナに向かう。 バルセロナといえば1992年の夏のオリンピック。でも今回の旅の目的はガウディ。

この日の夕食はホテル到着が20時ごろになっていたので各自でとることになっていた。でました、用意していたカップラーメン。異国で食べる日本のカップラーメンの美味しいこと。