史跡「土塔」特別公開

行基は堺出身の僧

南海電車の広報誌に「史跡土塔特別公開」という案内が載っていた。
そこには「奈良時代に僧行基建立した土塔の頂部を公開するはか、発掘調査で出土した瓦などの展示を行う」とあった。
土塔とは深井駅のそばにあって、車で傍を通るたびに一度近くで見てみたいとずっと思っていた史跡だ。こんな機会はめったに無い、と思い行くことにした。

土塔の約半分は再現され、残りは覆われたはずの瓦もない遺構として保存されている。 写真の下半分には発掘された「立瓦」と「粘土塊の列」と書かれた表示が基壇に置かれている。
そもそも「土塔」とは何なのだろう?
私は「ある種の古墳ではないか」となんとなく思っていた。
案内係の市役所の人に聞いてみると「古墳ではありません」ときっぱりと言われた。「お寺には五重塔や三重塔があるでしょう。それと同じで土で作られた塔なのです。頂上部分には建物が建てられていたようです」と説明してくれた。

当日の資料としていただいた「堺埋蔵文化財だより」には「史跡『土塔』に迫る」という記事が載せられていた。そこからの引用を記す。 
「・・・寺にはふつう木造の塔がありますが、この土塔は土の塔であり、材料が違うだけなのでしょう。神亀4年(727)に工事の始まった大野寺、この寺の塔が土塔であるということです。なぜ土でつくられたのかは、はっきりとわかりませんが、民衆にとって手に入れやすい、また、扱いやすい材料であったことがその理由なのかもしれません。瓦に名前を刻んだ人々をはじめとして、多くの民衆が土塔づくりに一度に参加するにふさわしい造り方であった事からも民衆の手造りの塔ということができます。土塔は奈良時代にこのあたりで活躍した行基とその活動を支え実際に行動した民衆たち(知識)の記念物なのかもしれません。なお、この土塔と全く同じものはありませんが、奈良市の東大寺にある頭塔(ずとう)がよく似たものであり、大阪市の四天王寺にもかつて土塔があったといわれています。・・・」

上の写真は名前の刻まれた瓦。
土塔の周りにはいくつかの説明板があり、文字瓦についての説明もあった。
「土塔には全面に瓦が葺かれていました。その数は約6万枚にもなります。・・・土塔からは文字を記した瓦が約1300点出土しています。大半は人名で、行基とともに土塔を建立した「知識(ちしき)」と呼ばれる人々の名を記した考えられ、男女を問わず僧尼や氏族の名前も見られます。』

上の写真左は「土塔」建造当時を予想して作られた模型。
右の写真は土塔の内部、土の様子がわかるように作られた観察ゾーン。

瓦六万枚をつくるのは大変な作業だったに違いない。
再現した瓦を持たせてもらったが、結構な重さだった。
いただいた資料には「土塔から北西約160mのところには土塔に使われた瓦を焼いた窯跡が2基見つかっています」とあった。
瓦を焼く人、運ぶ人、土を積み上げる人・・多くの人がこの土塔をつくるために汗を流したことが想像される。

上の写真は現在の大野寺(おおのじ)。
行基が建てた49院の一つ。平安時代に書かれた「行基年譜」には行基60歳の神亀(727)に建立されたとある。
行基は現在の堺市西区家原寺町(えばらじちょう)でうまれた。生家あとは合格祈願で有名な家原寺(えばらじ)になっている。

「堺埋蔵文化財だより」には、「奈良時代に仏教を介して民衆を束ねたひとりの指導者行基がこの地域のそれまでほとんど未開であった山野を開拓し、村を作り、道を、溜池を、そして寺をつくりました。その後いったん衰退する村もありますが、中世、近世の開発を経て現代に受け継がれてきました。当時の構築物で原型をよくとどめているものはこの土塔しかありません。私達の祖先が奈良時代にこの地を開発したあかしがこと土塔なのです。」

土塔の上からは、大仙古墳、ニサンザイ古墳などが見え、東には二上山、葛城山、金剛山が連なって見えた。1300年の時を超えてこの土塔があることに新鮮な感動を覚えた。