日本一の星空・阿智村

 

ここは長野県下伊那郡(しもいなぐん)阿智村(あちむら)。
不動温泉・華菱(はなびし)に泊まったときに駐車場で移した写真。I
ISO 4000   F 3.5  18秒の露出 ブルブで撮影 マニュアルホーカス、
だいたいこのような設定で写真を撮った。

阿智村は星がよく見えるところで有名らしい。
星を見るツアーがあったので参加した。
ウィキペディアで阿智村を調べてみると、
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2006年、なみあい地区もみじ平天文村、現在の銀河もみじキャンプ場で撮影された星空写真が、星の見え具合を報告する環境省主催の「全国星空継続観察」の2006年度夏期「一般参加団体による写真撮影結果において夜空の明るさが星の観測に適していた場所」において、夜空の明るさの等級23.7を記録し(数値が高いほど夜空が暗いことを示し、星の観測に適しているとされる)、観測した参加団体416団体のうちの最高点となった。・・・略・・・・阿智村では「星がもっとも輝いて見える場所」を謳い文句に「日本一の星空ナイトツアー」の実施や地域通貨「スターコイン」の発行、天体などの知識を問う「阿智村スターマイスター認定試験」の創設など、観光事業に役立てている。2015年には「日本一の星空」を商標登録・・・

ということで有名になったようだ。
全国のあちこちに「日本一の星空」という案内文句でツアーが組まれているようだが、商標登録してあるのは阿智村だけのようだ。

ホテルには天然温泉があり、リラックスできる泉質だった。
ウィキペディアによると、
「自家源泉2本から湧き出すお湯」だそうで、アルカリ単純温泉。
露天風呂もあり、ゆっくりと温泉を楽しむことができた。(写真はホームページより)

南西の空にある木星と土星。 左に明るく見えているのが、木星。
右端に見える星が土星。
木星の下に点々と光跡が写っているのは飛行機の航跡。

東の空を撮ったところ。 カシオペアがある。(星がありすぎてどれがどれだか、という感じになってしまう)
ブログにしてみると、星や星座がはっきりを見えない感じがする。
ブログ上にある写真をクリックすると、元の画像がみえるように設定してある(つもり)なので、試してみてほしい。

このツアーでは、星空案内人という方が、ギリシヤ神話に基づいて詳しい解説があった。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」にでてくる星座や石炭袋の説明があり、実際の星や天の川を見ながらの解説は大変充実していた。
びさしぶりに星を見て首が痛くなる体験をした。

これからは星を見るのに良い季節。
阿智村以外に星がよく見える場所がツアーで紹介されている。
また違ったところから星を見たり、写真を撮ってみたいものだ。

 

 

 

 

 

巨大古墳 黒姫山古墳

巨大古墳の時代を黒姫山古墳から知る

9月16日金曜日、堺市立みはら歴史博物館で、「シリーズ講座みはら学のすすめⅡ 第1回 巨大古墳の時代を黒姫山古墳から知る」という学習会があった。
講師は鹿児島大学総合研究博物館の橋本達也さん。
橋本さんは堺市美原区の生まれの人。この黒姫山古墳についての本も書いている人。
上の写真はGoogleマップからの引用。下に黒暇山古墳。上に堺市立みはら歴史博物館がある。
黒姫山古墳は、堺市のホームページによると、「全長114メートル、前方部幅65メートル、前方部高さ11,6メートル、後円部径64メートル、後円部高さ11メートルの二段築成の前方後円墳」とある。百舌鳥古墳群と比べても大きな古墳であることがわかる。

上の写真は当日配られた資料からの引用。 1948年1月18日の朝日新聞大阪地方版に載せられた記事。
橋本達也さんの書かれた「巨大古墳の時代を解く鍵」(新泉社)という本によると、

「・・・この古墳はもともとクロマツでおおわれており、そのため戦時中に松根油(しょうこんゆ)を採ろうとして墳丘が掘り返された。結果、前方部墳丘で石室が露出するに至った。そして、1954年5月5日、古墳の南東にある集落でこの石室から持ち出された鉄製甲冑があることに、周辺を踏査で訪れていた森浩一氏が気づいた。・・・」

そして1947年12月22日から大阪府の調査がおこなわれ、前方部石室から調査を開始し、埴輪列、墳丘調査が行われた。1948年12月23日から翌49年1月7日までの第2次調査で墳頂の上段埴輪列、後円部墳頂の方形埴輪区画などの調査がされている。

戦後の黒姫山の写真が上。当日の資料よりの引用。畑の真ん中に古墳があることがよく分かる。 戦時中は古墳の松が切り倒せれたことからわかるように、出入り自由だったのだろう。 江戸時代後期には石室が暴かれ、装飾品などのものはすべて取り去られていたようだ。

現在は付近に高速道路が走り、その建設のための調査も進められた。1990年には周辺が整備され史跡公園になっている。

左は黒姫山古墳周辺を歩いている時に見える埴輪列。
古墳が作られた当時は、現在のような木々もなく、古墳の周辺に置かれた埴輪列がよく見えたのだろう。
昭和28年の古墳の写真からわかるように、周辺には何も大きなものはなく、田畑がただ取り囲んでいるだけである。
遠くからこの古墳がよく見えたことが想像される。また千早赤阪村に近いことから、城塞などに使われたことも想像されている。

みはら歴史博物館には、黒姫山古墳から発掘された埴輪や甲冑が展示されている。 甲冑24セットは日本最大のもので、5世紀中葉から後葉のものといわれている。

橋本達也さんの話によると、
 黒姫山古墳自体は5世紀、古墳時代中期のものといわれている。 古市古墳群、百舌鳥古墳群、大仙陵古墳と同時代のもの。
甲冑が埋められた時期は5世紀後葉とみられ、古墳が作られてから数十年後に甲冑は埋められたと考えられている。
この甲冑は軍事に直結する装備ではなく、儀礼的なものではないかということだ。

古墳の多くは宮内庁の管轄にあり、古墳の調査発掘はなかなかできない。そんななかで、黒姫山古墳のもつ情報は大変大きい。
橋本達也さんは「黒姫山古墳の情報は、断片的な巨大古墳の情報をつなぐ鍵、巨大前方後円墳の実像を理解する上での基準資料」と言っている。

美原の地にはたくさんの歴史資料があるようだ。このような「みはら学」通して知ることはたいへん面白そうだ。

 

 

 

豚ひき肉とかつお節のチャーハン

今回のレシピは2022年9月9日(金)の朝日新聞に載っていた「人生レシピ」。
前回と同じく中華料理の五十嵐美幸さんのもの。 新聞の記事を一部引用する。
「息子が生まれ、自身も親になりました。それから、料理教室に積極的に取り入れているのが『だし』を使った料理です。
 息子が生まれて数年後、仕事で東南アジアを訪れ、魚のあらでだしをとったフォーなどを作って海外の人に食べてもらうと、『おいしい』と好評でした。『だしは子どもが小さいうちから食べさせてあげたい』。そう思い、同じように子を持つ親にも伝えるようになりました。
 だしのでるかつお削り節を使う『豚ひき肉とカツオ節のチャーハン』は、『味が決まらない』というお悩みを解決します。 『塩やしょうゆ、中華スープのもとを入れて、みんな味を濃くしがちなんですよね』と五十嵐さん。フライパンで肉を炒めたあと、かつお削り節を入れると、ふわっといい香りが立ち込めます。他に加える調味料はしょうゆだけ。冷めてもおいしい、乾物の風味豊かなチャーハンです。」

主な材料(二人分)

・豚ひき肉 100g、
   カツオ削り節 5g、    温かいご飯 250g、        卵(L)1個、
 青ネギ 2本、
 ゴマ油 大さじ1,
 しょうゆ 大さじ1と1/2

 

私はもう少し彩りがある方がいいだろうと思い、玉ねぎとにんじんをみじん切りにして炒めることにした。
ご飯は無水鍋で炊くことにした。
フライパンにゴマ油を入れて、玉ねぎのみじん切りを炒める。スパイスカレーのように10分以上炒めて香ばしい色にするのでなく、少し色が変わる程度、食べてみて辛味がないぐらいでOKとした。

にんじんも同様に炒める。
豚ひき肉を入れ、しっかりと炒める。

豚ひき肉に火が通ったら、カツオ削り節を加えて、さらに炒める。

カツオ節5gというと結構な量だとあらためて思った。
いい匂いがする。

ごはんをボールに入れ、たまごも準備しておく。たまごは菜箸でざっと2、3回まぜるだけにする。ぐるぐるとまぜすぎない。写真のようにまだらな状態で十分。
たまごを混ぜたごはんをフライパンに入れてよく炒める。

ごはんがたまごにコーティングされて、軽く炒めることができる。
鍋肌からしょうゆを加え、香りをつける。
仕上げに青ネギを加え、軽く炒める。

新聞には「炒めすぎに注意」と書いてある。「米粒と米粒が離れたら炒めるのを終え、パサパサになる前に火からあげます」。これがポイントなのだろう。

温泉卵があったのでチャーハンの上にのせてみた。 たまごのお吸い物も。たまご、たまご、たまごのチャーハンになってしまった。 このチャーハンのめざすところは「しっとり、ふくっくら、パラパラ」だそうだ。 たしかにこれまで私が作ったチャーハンの中では一番パラパラになっていた。 これはたまごを軽く混ぜたこと、炒め具合をしっかりとみていたことがよかったのだろう。
家族全員が完食。 「おいしかった」と言ってくれた。