伊能忠敬の地図

電子基準点の写真を撮ったあと、伊能忠敬はどのようにして地図を作成したのか知りたくなった。

映画「天地明察」で、歩測の場面があって、面白かったことを思い出した。
映画「天地明察」で渋川春海が北極出地の観測で緯度を調べたのは、1659年のこと。
伊能忠敬が第一次測量に出発したのは1800年6月11日。約150年ほどの年月が経っているか、歩測は重要な測量方法の一つだったのだろう。

今思うと、北極星の高度を測って緯度を計算するということができたというのは、地球が丸いこと。円を一周すれば360度だということを知っていたことになる。
江戸時代には地球は丸いことを知っていたのだろうか。機会を見つけて調べてみたい気がする。

伊能図と呼ばれる地図そのものについて見たかったので、左の本を借りた。

そこには地図を作成するための様子が、絵をたくさんつかって紹介されていた。

伊能図が完成されるまでに伊能忠敬は第1次から第10次まで調査に行っている。

第一次・・1800年 東北・北海道南部
第二次・・・1801年 関東・北地方東海岸の測量
第三次・・・1802年 東北地方日本海沿岸、
第四次・・・1803年 東海・北陸の測量 東日本の地図を完成。
第五次・・・1805年 近畿内・中国地方
第六次・・・1808年 四国地方測量
第七次・・・1809年 九州第一次測量
第八次・・・1811年 九州第二次測量
第九次・・・1815年 伊豆七島、忠敬は高齢のため不参加
第十次・・・1818年 江戸市中
17年にわたる偉業だったことがこの表からわかる。

距離を測り、地図を作っていくには結構な人数が必要だった。
有名な徒歩による歩測は、第一次のみで、第二次以降は「真竿」「間縄」「鉄鎖」などで実際の距離を測っていたそうだ。

夜は天体観測による測量。
象限儀や子午線儀によって、恒星の硬度が測定された。

 

象限儀というのは、ウィキペディアによると、
四分儀(しぶんぎ、quadrant)あるいは象限儀(しょうげんぎ)とは、円の4分の1の扇形をした目盛りのついた定規に照準類がついた道具。
いくつかの使用法がある。天体観測の道具として用いる場合は、主に天体の地平線からの高度を測定するために用いられた。また太陽や明るい星の子午線高度を利用して、観測者の地理的緯度を割り出すためにも使える。また観測者の緯度がすでに判っている場合は、時刻を得ることができる[1]。たとえば天体観測の高度計、測量道具、航海道具、時計として使われた。」

伊能忠敬の持っていった象限儀は中型のもので、半径115センチメートルの四分円というものだったから、図のように結構大きなものだと思う。

上の写真は「浦島測量之図」より、夜間の測量風景。ネットより引用した。
ここには子午線儀をつかって、恒星の南中を観測しているところが描かれている。

子午線儀に張った糸で作る二つの三角形の面の真上を星が通過する瞬間、3本の糸が重なる面の上を星が通過する瞬間を観測している。

このようにして1127箇所で星の観測をしている。
2冊の本によると、「北極星ではなく、こぐま座、カシオペア座、しし座など誰でも見られる普通の恒星」を観測しているという。それは「北極星は赤緯1.5度、北極の周りを直径3度の円運動をしていた」ためと「伊能忠敬の日本地図」(渡辺一郎著)には書かれていた。一晩に多いときには20個以上の星を観測しているとも書かれている。
このようにして緯度の測定に力を注いだことがよく分かる。

緯度の測定は星を観測でかなりの精度を確保できたらしい。
経度の測定には日食や月食を江戸と大阪の同時観測をして計算したかったらしいが、天候の関係で思った成果はでなかったらしい。
その結果、伊能図は現在の地図と比べて、南北は正確だが東西では歪みがあるそうだ。

17年の歳月をかけた伊能図は、伊能忠敬の死後に完成した。
江戸幕府に献上された正本は明治維新を経て皇居に保管された。しかし明治6年(1873年)5月の皇居火災で消失した。
東京帝国大学附属図書館にあった副本は、大正12年(1923年)9月の関東大震災で消失した。
私達が見るのは、原本の伊能図ではなくその「写し」なのは大変残念だ。
その写しがアメリカで207枚発見されたり、いろんな写しが今も残っているそうだ。詳しい経過は「伊能忠敬の日本地図」(渡辺一郎著)に書かれている。
「伊能図」の閲覧は、国土地理院の「古地図コレクション」、伊能忠敬研究会のホームページ、国立国会図書館の「デジタルコレクション」で見ることができる、アナログでは「伊能図大全 全7巻」が出版されていると「伊能図探検」(河出書房新社)に紹介されていた。
調べれば調べるほど、江戸の天文観測はおもしろい。