奥の細道を英語で9(平泉2)

I went to see the old battlefield in Takadachi where MInamotono Yoshitsune killed himself.
It’ on a hilltop and you can see the Kitakami River which starts in the mountains far away.
I thought about Yoshitsune.
He and his men fought bravely here and died.
How short a man’s life is!
Plants are different.
They come up every year, keeping the endless circle of life.
I took off my hat and sat down on the ground.
I quietly said a famous Chinese poem as tears rolled down on my cheeks.
I wrote this haiku.

Summer grass grwoing
Where soldiers fought long ago
Only a dream now

*battlefield; 戦場
*hilltop; 丘、小山の頂き

先(まず)高舘(たかだち)にのぼれば、北上川南部より流るる大河也。
衣川(ころもがわ)は和泉が城(いづみがじょう)をめぐりて、高館の下にて大河に落入(おちいる)。
泰衡等が旧跡は、衣が関を隔(へだて)て、南部口をさし堅め、夷(えぞ)をふせぐとみえたり。
偖(さて)も義臣すぐつて此城(このしろ)にこもり、功名一時(いちじ)の叢(くらむら)となる。
「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷(うちしき)て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。

       夏草や 
         兵(つわもの)どもが夢の跡

       卯の花に
         兼房みゆる白毛(しらが)かな
                        曽良

*高舘; 義経の館の名前。
*南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。; 南部方面から平泉に侵入してくる蝦夷から防衛しているという意味。
*国破れて山河あり、城春にして草青みたり; 杜甫の「国破れて山河あり、城春にして草木深し」を引用している。

橋本治さんの訳を引用する。
「何よりも先にと、源義経の遺跡である高館にのぼると、目の下に、遠く南部領から流れ下る大河、北上川が見えた。衣川は、秀衡の三男和泉三郎の居城だったが、和泉が城をめぐって、この高舘の下で北上川に合流している。秀衡の次男泰衡たちの旧跡は、ここから見ると衣が関の向こうにあって、北からの蝦夷の侵入を防ぐ南部口をかためた役割を果たしている。いうまでもなく、ちう襲撃がかけられても、それをはね返すことが目的の北の砦だったのだ。
 考えてみると、義経は忠義の臣下を選り抜いてこの城に立てこもり、後世に伝えられる数々の武勇談が語る戦いを繰り広げたのだが、それらすべては、ほんのひと時の夢となりはて、その跡は草が生え茂るただの場所になってしまっている。
「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と詠んだのは中国の詩人杜甫である。その詩を口ずさみながら、笠をその名残後に置いたまま、時間が流れ去るのもかまわず、泪をながしつつ、そこに座り続けた。

           夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡

           卯の花に兼房見ゆる白毛かな        曽良   」

長谷川櫂著「『奥の細道』をよむ」には
「夏草や/兵どもが夢の跡/」高館跡に茂る夏草を見て、夢と消えてしまった義経主従と藤原三代をしのぶ。「夏草や」(現実)と「兵どもが夢の跡」(心の世界)と取り合わせる古池型の句。
「卯の花に兼房みゆる白毛かな」 高館あたりの卯の花には鬼神さながらの奮戦の果、燃え盛る炎に飛び込んで討ち死にした兼房の白髪の面影がちらちらする。こちらは一物仕立て。」とある。
兼房は義経の最後を見届け、敵とともに火炎に飛び込んで戦死したと言われている。

最初の写真は「ビジュアル古典文学 おくのほそ道」から引用したもの。
栄枯盛衰の跡が感じられる写真だと思う。現在でも通用する「奥の細道」の世界。それが文学足らしめているのかも知れない。