とりかへばや物語 吉野編

「とりかへばや物語」については、左の本のように河合隼雄さんの研究が有名である。 内容が多岐にわたっていて、私の力量では紹介しきれないので、物語の「吉野」についての部分を引用したい。

吉野は、HaruもAkiも訪れている所。そこで吉野の隠者との出会いが二人のそれからの生き方に方向づけしているように思える。河合隼雄さんからの引用を下記にしるす。

・・・・・・・・・・・・・・・

吉野の意味を体現しているのが、吉野の隠者である。彼は帝の第三子という天皇の血統に属し、唐に遊学したという。つまり、彼の「知」はこの世とは次元の異なるものであるということが示されている。そして、今や彼は浮世に対して何も望みを持たず、それと切れた生き方をしている。よほどのことがない限り、吉野と京都はつながることはないのだ。彼の二人の娘は、母親が中国人であるという事実により、その存在がどこかでこの世なるぬものとかかわっていることを示している。
・・・略・・・・
 この奥深い吉野と京都をつなぐ最初の動きは、右大将である姉君(Haruのこと)によってはじめられる。
 日常の世界から非日常の世界へ行き、そこに住む女性を獲得する話は、西洋の昔話などのお得意の話だが、そこに登場するのは男性の英雄であり、彼は目的達成のために戦うことが多い。
 ところで、この話では、ます登場したのは男装しているとはいえ女性であり、彼女はもともと世を棄てるために吉野にやってきたのである。
・・・・略・・・・。
 中将(Natsuのこと)は宇治しか知らぬと言ったが、最後には吉野の妹姫との結婚によって、吉野とも少しはつながってくる。こうなると、中将(Natsuのこと)は不可解な「右大将(姉君ーHaruのこと)の失踪」について、秘密の鍵を握っていると思われる自分の妻に問いただしたくなってくる。
 結局のところは、彼女の「事情があるのだ、とお思いになさいませな。聞いて事情が明らかになさったところで、もはや絶え果てた野中の清水は、汲み改めようとしてもむなしいことですから、御心中の苦しさも増し、悪い噂が世間に漏れるというのも、よろしくありません」と言われ、納得するのである。
 吉野の知は、何かに関する知ではなく、知ることの抑制という知であることを、中将(Natsuのこと)は知ったのである。
このようなバランス感覚を身につけることが必要なことを、姫は教えたのである。」

「・・・要するに『とりかへばや』は実に多様なイメージと多様な読みをわれわれに与え、ひとつの視点ーたとえば近代自我ーからのみ見ることを許さないのだ。 しかし、考えてみると人間の心のなかのイメージとはこのようなものであり、一筋の道に従って読みとおせるようなものではないのではなかろうか。
 モーツアルトは自分の作曲した交響曲を一瞬のうちに聴くのだと言ったという。彼の一瞬の体験を一般の人々に伝達可能な形にすると、それが演奏時間20分の曲になるのである。聴く方は20分を要するがモーツアルトの原体験は一瞬である。
 イメージというものはそのようなものではなかろうか。 瀕死体験者の報告に、一瞬の間に自分の全人生をイメージとして見たというのが割に沢山ある。一生の出来事が一瞬に凝縮されて体験されるのである。
 このようなことを考えると、『とりかえばや』にながながと語られていることも、ひょっとすると、人間の一瞬のイメージ体験なのではないかと思われてくる。
 一瞬の体験をわかりやすく話をするとひとつの物語になる。人間の心がどのように変化するか、成長するかなどというのではなく、人間の心の一瞬の在り様が『とりかへばや』という物語に語られているようにも思えるのである。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「とりかへばや物語」が、私の思っている以上に深い内容があることがわかる。
この物語は戦前は読むことが出来なかったと田辺聖子さんは後書きに書かれている。
里中満智子さんは「『とりかへばや物語』は一般の書架とは別に、カーテンで仕切られた図書室の奥の秘密めいた場所におかれていた。」と田辺聖子さんの「とりかへばや物語」の解説で書かれている。
戦時中は評価の低い作品だったようだが、川端康成さんは自分の翻訳に関わってこう書かれている。

「私は学生時代から『堤中納言物語』とこの『とりかへばや物語』とに、意外に新鮮な魅力を感じていた。明治以後『堤中納言』の文学的価値が発見されたほどには、この『とりかえばや』が光を放つことはないかもしれないが、少し不当にはづかしめられ、なおざりにされて来たことは、疑えないと思う。そういうわたしのこの物語に対する長いあいだの同情が、ここに現代訳を試みる羽目になった因縁である。この物語のおもしろさを、私の訳文がいくらか伝え得れば幸いである」

Enjoy Simple English でこの「とりかへばや物語」を読まなかったら、私も田辺聖子さんの訳、鈴木裕子さんの訳、桑原博史さんの訳に出会わなかったろう。そして川端康成さんが翻訳されていたことも全く知らないままだったと思う。
河合隼雄さんの研究にも触れることはなかっただろう。
そういう意味では、この「とりかへばや物語」は、私の世界を広げてくれた作品だといえる。