Morozane was very grateful, so he sent his people to look for Zushio’s father.
But the father was already dead.
Zushio was very sad but decided to live a life on his own.
With Morozane’s support, Zushio got a good job to manage the region in Tango, where Sansho-dayu lived.
師実は厨子王に還俗させて、自分で冠を加えた。同時に正氏が謫所へ、赦免状を持たせて、安否を問いに使いをやった。しかしこの使いが往ったとき、正氏はもう死んでいた。元服して正道と名のっている厨子王は、身のやつれるほど歎いた。
その年の秋の除目に正道は丹後の国守にせられた。これは遙授の官で、任国には自分で往かずに、掾をおいて治めさせるのである。
As the leader, Zushio made a new rule; no more buying and selling people.
Next, he built a temple by the pond to pray for Anju.
森鴎外の「山椒大夫』では、安寿を死に追いやり自分も死の直前まで追い詰めた山椒大夫たちには、厨子王はびっくりするほど寛容である。
奴婢を解放させただけでそのあとは以前のようにさせ、「一族はいよいよ富に栄えた」とある。
偕成社の『日本伝説 あんじゅとずし王」も同様である。上の写真の「新・講談社の絵本 安寿姫と厨子王丸」もそうである。
しかし、朝日ソノラマの「日本名作ものがたり あんじゅとずし王」は、山椒大夫を死刑にしている。
吉田修一作のアンジュと頭獅王」では、山椒大夫の子どもの三郎は山椒大夫の首を斬るように命じられて父親の首を切る。そして三郎自身も海辺の砂浜に首から下を埋められている。
講談社の「21世紀版 少年少女古典文学感にある、ねじめ正一作の『山椒大夫』」では、山椒大夫を首だけ出るように埋め、三郎に竹鋸でその首を斬るように命じている。首を切った三郎も浜につれていかれ、往来の者どもに七日七夜首をひかせている。
説経節ではたぶんこのように残酷だったのだろう。それを森鴎外が大きく変え、その流れで子どもむけの「安寿と厨子王」という本ではその内容も変わってきたのではないかと、私は想像する。
Then Zushio headed for Sado to look for his mother.
When he walked by a farmer’s house, he saw an old woman chassing birds away form the awa grain.
She could not see.
Suddenly , something made him walk closer to her.
He heard her quietly sing.
“Go away birds, I miss my little girl Anju.
Go away birds, I miss my little boy Zushio.”
Zushio ran to the woman with his eyes full of tears.
He could not speak.
Then he touched the buddhist statue to this old woman’s forehead.
She opened her eyes. and looked at the young man in front of her.
“My dear Zushio!”
The words echoed through the village as mother and son held onto each other.
佐渡の国府は雑太という所にある。正道はそこへ往って、役人の手で国中を調べてもらったが、母の行くえは容易に知れなかった。
・・・・略・・・・
ふと見れば、大ぶ大きい百姓家がある。家の南側のまばらな生垣のうちが、土をたたき固めた広場になっていて、その上に一面に蓆が敷いてある。蓆には刈り取った粟の穂が干してある。その真ん中に、襤褸を着た女がすわって、手に長い竿を持って、雀の来て啄むのを逐っている。女は何やら歌のような調子でつぶやく。
正道はなぜか知らず、この女に心が牽かれて、立ち止まってのぞいた。女の乱れた髪は塵に塗れている。顔を見れば盲である。正道はひどく哀れに思った。そのうち女のつぶやいている詞が、次第に耳に慣れて聞き分けられて来た。それと同時に正道は瘧病のように身うちが震って、目には涙が湧いて来た。女はこういう詞を繰り返してつぶやいていたのである。
厨子王恋しや、ほうやれほ。
鳥も生あるものなれば、
疾う疾う逃げよ、逐わずとも。
正道はうっとりとなって、この詞に聞き惚れた。そのうち臓腑が煮え返るようになって、獣めいた叫びが口から出ようとするのを、歯を食いしばってこらえた。たちまち正道は縛られた縄が解けたように垣のうちへ駆け込んだ。そして足には粟の穂を踏み散らしつつ、女の前に俯伏した。右の手には守本尊を捧げ持って、俯伏したときに、それを額に押し当てていた。
女は雀でない、大きいものが粟をあらしに来たのを知った。そしていつもの詞を唱えやめて、見えぬ目でじっと前を見た。そのとき干した貝が水にほとびるように、両方の目に潤いが出た。女は目があいた。
「厨子王」という叫びが女の口から出た。二人はぴったり抱き合った。
地蔵菩薩像をもっている厨子王は、その地蔵菩薩像の力によって母親の目が見えるようになる。
地蔵菩薩像を持っていない厨子王は、厨子王の涙や母親自身の涙によって目が見えるようになっている。
このように説教節にルーツがある「山椒大夫」「安寿と厨子王」にはいろんなバージョンがあるようだ。
安寿も身を投げずに生き残った本もある。
あるいは三途の川で、弟の身代わりになったことでもう一度現世に戻って生き直す機会を与えられた本もある。
私が小学生の時に読んだ本では、安寿は弟のために自分を犠牲にしていた。その人がどんな本を読んだのか、話を聞いたのかによって少しずつ内容が違っているのだと思う。しかし説話で伝わったお話が、森鴎外によって文学として蘇らせた功績はやはり大きいと言っていいのだろう。