日本語表記の歴史 6

濁音と濁点

万葉仮名には、左のように濁音を表す漢字が使われていた。

「が」なら、「賀」・「何」・「河」・「我」などの漢字が、

「ぞ」なら、「俗」

「ぢ」なら、「治」・「地」・「遅」・「尼」

「ぼ」なら「煩」と、

なるほどそういう漢字を使って「これは濁音です」とわかるようになっていたのだなあと納得できる。

では、「ひらがな」「カタカナ」の濁音を表す「濁点」はいつから使われるようになったのだろう。(上の表は「光村の国語 広がる! 漢字の世界2 漢字が日本にやってきた!」から)

平安時代ー濁音専用の「かな文字」がなかった

「見て読んでよくわかる! 日本語の歴史①」に、濁音についての説明があつた。

「現代では濁音であることを示すために静音の『か』『さ』などのかな文字の右肩にふたつの「’’」(濁点)を打ち、『が』『ざ』などと書きますが、平安時代にはひらがなにもカタカナにも、濁音をあらわすための文字はありませんでした。学問的な書物には濁音であることをしめす記号がありましたが、文学作品や手紙などでは濁音の指示はありませんでした。また、濁音も静音と同じ口の形で発音され、語と語と結びつくと、もとは静音だったのが濁音に発音される(連濁)こともあるので、現代のように濁音と静音はまったく異なる音だと区別して、意識されてはいなかったのではないかとも考えられます。
 いずれにしても、平安時代の人は、文章の中で濁音の指示がなくても文脈に沿って理解し、不自由しなかったものと思われます。
 かな文字に濁点を打って濁音を示す方法が普通の文章で用いられるようになったのは、江戸時代以降のことでした。公式の文書では、濁点を打たないで書くことが、明治時代まで続きました。」

とある。

左は源氏物語の「桐壺」の冒頭の部分。

「い徒連(いつれ)の御時にか女御更衣あま多佐ふらひ給てける中にいとやむことな起きはにはあらぬ可すく連て時めき給ありけり・・・」と書かれている。(専修大学 斎藤研究室のホームページより引用)

http://mojilabo.com/viewer/

万葉仮名と平仮名が使われている。平仮名の濁点はないことがわかる。

平安時代の人たちは、濁音・濁点がなくても前後から判断していたことがここで推測できる。

 

「日本語全史」(ちくま新書 沖森卓也著)によると、

「濁点は、漢文訓読もしくは学問の世界から社会一般に広がっていった。右肩に濁点が固定するのは15世紀後半以降のことで、17世紀初頭になると、その位置がほぼ定着するようになった。ただし、濁点は片仮名書きにはかなり忠実に付されるものの、平仮名に置いてはまだあまり普及していなかった。(P147)」

下の写真は、「下学集(かがくしゅう)」の一部。1444年(文安1)に成立した国語辞書。(「見て読んでよくわかる! 日本語の歴史②」筑摩書房より)
壬生(ミブ)櫛筍(クシゲ)など、片仮名に濁点が打たれているのがわかる。

下の写真は、1821年に刊行された「雅語譯解」。
平仮名に濁点がうたれているのがわかる。(「図説日本語の歴史」今野真二著 河出書房新社 より)

こうして濁音をあらわす仮名として、濁点がつけられていったことがわかる。

上の写真の左は「大日本帝国憲法」の一部、右は「日本国憲法」の一部。どちらもインターネットより引用したもの。
明治時代は漢字と片仮名が使われ、全文を見ると濁点もない。
日本国憲法は平仮名が使われ、濁点もある。

現在のように、法令文書などにも濁点が使われるようになったのは昭和になってからだと言われている。(昭和21年6月17日船「官庁用語を平易にする標準」の策定からだとされている。)
私達の使っている、平仮名中心の文であり、濁点が平仮名でも片仮名でもどちらでも使うようになったのは比較的新しいことがわかった。

 

 

 

 

 

 

 

日本語表記の歴史 5

「ひらがな」の誕生

「カタカナ」は漢文を読む工夫から出来たことはわかった。
漢文を読むために、日本語の注や読みなどを万葉仮名を利用していたが、漢字の一部を利用する「カタカナ」に発展していったと理解できる。

この当時の筆記用具は筆だったことを忘れてはならない。現在のように鉛筆やボールペン、万年筆はなかった。すべて墨と硯と筆で文字は書かれた。だから漢文の四隅に万葉仮名を使って読みや注釈を書き入れることが面倒だったことは想像できる。

漢字の書体の変化は左の写真のように変化した。
今から2200年ほど前、秦の国がそれまであった書体を「小篆(しょうてん)」という書体に統一し、さらにより書きやすい「隷書(れいしょ)」がつくられた。
「隷書」を早く書くために、「行書」「草書」という書体がつくられた。
私達が普段よく使う「楷書(かいしょ)」は一番あとからできた文字で、「隷書」から別れたものだと言われている。
楷書が一番あとから出来たとは知らなかった。私は「楷書」が「行書」や「草書」に変わっていったものだと思っていたら、そうではなかったのだ。

「草書」は平安時代には使われていたようで、万葉仮名が草書で書かれるようになった。

この「草書」が「ひらがな」の起源だと言われている。

「金田一先生と日本語を学ぼう2 文字のいろいろ」(岩崎書店)によると、

「平仮名のおこり
『万葉集』の作られた奈良時代の、次の平安時代(「794年〜1191年)になると、漢字はさらに広く使われるようになり、早く書くために『草書体』といって、字形をくずした書き方が行われるようになりました。この草書体から平仮名が生まれました。・・・・・平仮名の字体はたくさんありましたが、1900年(明治33)年に現在の形に統一されました。」とある。

「広がる!漢字の世界2 漢字が日本にやってきた!」(光村教育図書)によると、
「平仮名は万葉仮名の形を崩した文字、片仮名は万葉仮名の一部を取り出した文字です。くずし方や取り出し方は、時代や人によってさまざまでした。そのため、同じ「あ」を表す平仮名・片仮名にもいろいろな書き方がありました。
その状態が明治時代まで続き、1900年に「小学校令施行規則」が出されてようやく、平仮名・片仮名の形はわたしたちが現在使っている形に統一されました。そして、教科書が統一された形の文字でつくられました。・・・」とある。

(平仮名の成り立ち・・「金田一先生と日本語を学ぼう2 文字のいろいろ」より)

(「広がる!漢字の世界2 漢字が日本にやってきた!」(光村教育図書)より)

2冊の本を比べてみると、平仮名のもとになったという漢字は同じものが紹介されている。しかしそのくずし方は色々とあることがわかる。

 

 

 

ダンボールクラフト

ダンボールの工作の講座が大阪歴史博物館である、という案内を見つけた。
小中学生が対象だろうなあと思ったが、「どなたでも参加できます」と書いてあったので、応募することにした。

会場になった部屋には、出来上がりのダンボール模型が並べてあった。
講師は「diorama radio 藤川哲也」さん。
これまでの作品を見せてもらったが、集めると街ができるほど。

材料はすべて準備されていて、持ち物は「ハサミとカッター」を指定されていた。 私はカッターは用意していたがハサミを忘れていた。それも借りることができ、スムーズに進むことができた。

カッターで切っても机が傷つかないようなマットやものさしも準備されていた。 講師の先生が用意したダンボールには、あらかじめ鉛筆のようなもので設計図が書かれていた、

気に抜いたものを直方体に形作って、のりづけをする。輪ゴムでしばらく固定。

接着剤が固まるまでの間を利用して、ここ大阪歴史博物館の学芸員さんから「大阪市立中央公会堂」の歴史についてお話があった。
中央公会堂は1913年(大正2年)に着工され、1918年(大正7年)に竣工している。そのとき設計のコンペがあり、1位にえらばれたのが上の写真の岡田信一郎さんのものだそうだ。
中央公会堂の特徴は、材料がすべて国産だということ。白い大理石も赤いレンガも国産である。その赤いレンガを作ったのがどこかというと、堺市だということだ。大正時代、日本のレンガ生産量は堺市がトップだと言う。現在は北海道だそうだ。

2位、3位になった作品も見せてもらった。今のデザインと全く違っている。
もし違うデザインが採用されていたら、中央公会堂付近の風景も違って見えるだろうなあと思った。

3つのダンボールの直方体に色を塗る。パステルを貸してもらって、実物の写真を見ながら色を塗る。 窓の形や柱の位置などは、本物そっくりにしてもいいし、私のように自由にデフォルメしてもおもしろい。

植木と建物の上にある避雷針の模型はサービスでいただいた。
かまぼこ板のような板、バルサ材のようだが、それもサービス。そこには講師の先生が用意された「大阪市中央公会堂」のネームシールを貼って出来上がり。

一緒に作った人たちの作品。 同じ材料、同じ資料を使っても、出来上がりが違うのがおもしろい。今回は大阪市中央公会堂がモデルだったけれど、大阪や全国の有名な建築物をモデルにして、ダンボールクラフトが楽しめそうだった。
来年もあったら、行ってみようかなと思った。