学童疎開 朗読会

大阪市立中央図書館で、学童疎開についての朗読会があった。

読売新聞の記事によると、
「太平洋戦争末期の学童疎開の経験者でつくる『国民学校と学童疎開を考える会』が、会員の高齢化のため9月末で解散することを決めた。
次世代に体験を語り継ぐため、会員の手記をまとめた本を出版。活動の締めくくりとして21日に大阪市内で本の朗読会を開く。
 同会は2009年、関西などの疎開経験者や、児童を引率した教諭ら約110人で結成され、語り部活動やシンポジウムで平和の尊さを訴えてきた。しかし平均年齢は現在、84〜85歳になり、会員数も約50人に減少。会を率いてきたメンバーが相次ぎ亡くなったため、6月の臨時総会で解散を決めた。・・・・朗読会では4人が自らの手記を朗読する。大阪市立中央図書館5階大会議室で開催。無料、定員300人(先着順)」あった。

私の知り合いも朗読するので参加することにした。

資料によると、朗読する4人は、

神埼房子さんの「戦争は敗戦になっても終わらなかった。」

山下良寛さんの「両親と離れても懐かしい疎開の生活」

秋山美代子さんの「弟二人を連れて下市に縁故疎開」

田中洋子さんの「台湾でも日本人学童が集団疎開」

であった。
私の知らないことをたくさん知ることのできた、4人の体験談だった。

秋山美代子さんの手記から当時の様子を紹介してみたい。秋山さんは昭和8(1933)年うまれ。敗戦後、大阪市の小学校教員になった。

「・・・・昭和19年6月末、学童疎開が決まったのだ。縁故疎開をする者はそこへ。縁故疎開地がない者は、集団疎開することになった。
 私(6年)は、達夫(4年)、正彦(2年)の弟二人を世話する約束で、下市の願行寺へ縁故疎開で行くことになった。
 折しも願行寺には、大阪市立河堀国民学校の4年生、5年生が集団疎開で来ていた。現在の天王寺区にある大阪市立聖和小学校である。
・・・・食べる物は、米粒を探さないと見つからないほどの「大和の茶がゆ」、甘みもなく、すじばかりのさつまいもの種いもなどで、おかずが思い出せない。
 夜はひもじくて納屋にあった「ぬか」を火鉢で焙烙(ほうろく)の上にのせ、煎って食べたものだ。そして私がたいへんだったと記憶するのが弟二人の靴下の繕いであった。
 戦時中、配給される靴下は、ステーブル・ファイバー、いわゆる「スフ」で作られていた紙の繊維で編んだ靴下である。元気盛りの弟二人だから、すぐに破れるのだ。寒い冷たい部屋で毎晩のように靴下を繕わねばならなかった。
・・・・・虱がわいて、川堀校の先生方が地輪という大きな鍋で、子ども達の衣類を炊いて虱を駆除することを毎日のようにしておられた。おおきな鍋のお湯の表面に無数の虱がもがいていた。
 「奈良の三名公園」の一つと言われていた願行寺の庭の縁側で子ども達が日向ぼっこをしながら、ずらっと並んで「虱つぶし」をしていたのが思い出される。私達三人も、虱退治をよくしたものだ。
・・・・・8月14日、森ノ宮から京橋にかけてあった陸軍歩兵工廠へのアメリカ軍の「最後の爆撃シリーズ」の空襲で、私の家は、本堂も庫裡も壊れた。
 翌8月15日、敗戦。
 家もなく、食べるものもなく、着るものもない。
 私は、これからどうなるか不安で、毎晩のように月を見上げて泣いた。
 下の弟二人が、栄養失調で死んだ。
 もう戦争は嫌だ!
 「心に、平和の砦を・・・」

 秋山さんは教員を退職した後は、戦争の語り部を続けている。

台湾にも米軍の空襲があった

田中陽子さんは台湾で生まれている。
太平洋戦争中の台湾は日本の統治下にあった。
米軍は昭和20(1945)年5月31日に台湾の台北市に約3800発の爆弾を投下している。
田中さんたちは空襲を避けるために疎開をしている。手記によると「国民学校3年生から6年生の子どもたちは汽車に乗って学童疎開」をしている。

 空襲や学童疎開は日本本土だけかと思っていたが、そうではなかったのだ。

左の本は当日手に入れた本。

第1部には「国学考(国民学校と学童疎開を考える会)の記憶と記録」として、学童疎開の体験記、学童疎開ついての資料がたくさん載せられている。
第2部は、「戦争を生き延びた子どもたち」と題して「学童疎開展実行委員会事務局」の発行の本が合冊の形でついている。

朗読された神崎房子さんの手記に、「当時の集団疎開の生活費は一人10円だ。二人の子供に毎月20円の出費が負担になり、後に集団疎開は私一人だけになった。」と書かれている。私は集団疎開に家庭からの負担金があったことは全く知らなかった。
国策の学童疎開だから、すべて国の費用で賄われていたと思っていたが、そうではなかったのだ。
昭和19年当時の10円というのは、どれくらいのものなのだろう。ネットで調べてみると、昭和19年の教員の平均給料は50円だったという。収入の1/5である。
子ども二人を疎開させると毎月20円、三人だと30円と家計を圧迫したに違いない。お金や寝具、衣類を用意できない家庭の子どもは、空襲のある都会に残らざるを得なかった。学校ごと集団疎開から除外されたところもあったという。
戦争中にも格差と差別はあったのだ。

この本の資料によると、学童疎開は日本だけではなかった。
第一次世界大戦、第二次世界大戦を通じて多くの国が学童疎開を行っている。
スペイン、イギリス、フランス、ドイツ、ポーランド、ソ連と、私は知らなかった。
戦争になると子どもたちも大きな被害をおよぼしているのだ。現在戦争状態にあるイランやイラクなどの国々の子どもたちの生活はどうなっているのだろう。学童疎開は過去の話でなない。

テレビ局の取材もあった。
出席されていた人たちの多くは学童疎開を経験された人たちと思う。どんな思いで同じ体験をしてきた人たちの朗読を聞かれたのだろうか。
過去のことではない集団疎開。このことに気づかされた朗読会だった。

 

 

 

 

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