山月記② 国民教材

「山月記」がどのように高等学校で使われてきたのか、そのことを詳しく調べているのが左の本。
「国民教材」という言い方を初めて知ったが、それほど教科書で使われている教材ということだろう。

この本によると、
「昭和57年度の『高校国語教科書の小説教材出度数(率)」は、「こころ」82%、「羅生門」82%、「山月記」76%、「舞姫」59%である。」
「『山月記』は1978(昭和53)年度版学習指導要領実施期)において、54冊の教科書に掲載された。この時期に、「羅生門」「山月記」「こころ」「舞姫」という私たちに馴染み深い四定番教材が誕生したのである」とある。
4つの定番の教材という言葉も初めて知った。 

2013(平成25)年度からは、高校の国語は、国語総合、国語表現、現代文A、現代文B、古典A、古典Bの6種類に別れているそうだ。「現代国語」という授業はもうないのだ。そうしてこの現代文Bで使われる教科書すべてに、「山月記」はのっているそうだ。それほど「山月記」は、高校の国語ではポピュラーなのだ。私は全く知らなかった。

「『山月記』はなぜ国民教材となったのか」を読んでみると、なぜ「山月記」がこれほど教科書でつかわれるようになったのか、という分析が詳しく載せられている。
興味のある人は是非この本を読むといいと思う。高校の国語の変遷がよくわかる。

私が興味を持ったのは、「山月記」という小説は「古譚」という作品集の中の一編だということだ。
「山月記」という一つの小説ではなく4つの連作の中の一つだったということが「『山月記』はなぜ・・・・」にかかれていた。
そこで図書館で左のような「中島敦全集」を借りてきた。

「古譚」は、「狐憑」、「木乃伊」、「山月記」、「文字禍」の4つの作品からなっている。4つじゃなくて6つだという説もあるそうだが、多くは4つと言われている。
・「狐憑」は弟を戦争で亡くした兄が何かに取り憑かれたように物語を語りはじめる。それが人間だけでなく動物や植物にもなって物語をする。実は彼は今で言う詩人だったのだ。しかしこの時代には詩人も文字もなかった。詩人の価値を認めない社会は彼を抹殺してしまう、という感じの話。一番最後に「ホメロスと呼ばれた盲人のマエオニデェスが、あの美しい歌どもを唱いだすよりもずっと以前に、斯くして一人の詩人が喰われて了ったことも、誰もしらない。」と書かれているのが衝撃的だった。

・「木乃伊」は、ペルシャ軍の部将がエジプトを占領したとき、わからないはずのエジプト語がわかると言い出した。エジプトの街を捜査しているときに木乃伊を見つける。なんとそのエジプト人の木乃伊が、前世の自分であることを発見する。前世の自分の木乃伊を見ているうちに、その木乃伊の前世も自分であることを発見してしまう。「合せ鏡のように、無限に内に畳まれて行く不気味な記憶の連続が、無限に ー 目くるめくばかりに無限に続いているのではないか?」という文章にいきあたると、なんとこれは立派なSFじゃないか、と思ってしまう。

・「山月記」は人間が虎になってしまった話。

・「文字禍」は文字の精霊が人間をたぶらかし、人間に反逆するという話で、「書かれなかったことは、なかったことじゃ。芽の出ぬ種子は、結局はじめからなかったのじゃわい。歴史とはな、この粘土板のことじゃ」というところは現代に痛烈に突き刺さる台詞だと思う。

こういった一連の作品の中にある「山月記」だと位置づけないと、正確な作品解釈はできないのではないか、という主張である。
「山月記」だけを取り出して作品分析をし、解釈をし、教育的価値を見出すというのは、作品全体を無視することになるのではないか、という意見だと思う。

読解から音声言語指導へ

「なぜ国民教材になったのか」の本を見ると、「山月記」の国語の時間での取り扱い方に大きな変化がある、ということだ。

1960年代は、「読解」が中心であり、「主題、作者の意図」を読み取ることに力を注いだそうだ。そういえば私の習ってきた国語を思い出すと、「この作品の主題はなにか?」「作者の意図を考えよう、読み取ろう」という課題が多かったように思う。
1982年〜90年は、「読解」だけれども「語り、読者論」という指導が多くなってきた書かれているが、正直言って何回読んでも私にはよくわからないところだ。
2000年代になると、「音声言語指導」に力が向いてきているそうだ。音読、群読ということらしい。声を出して読むことが作品理解につながる、ということなのだろう。群読することで一体感と爽快感を味わえる作品だということかもしれない。
音読ブームの現在にはうってつけの作品になったのかもしれない。

しかしこの本の著者は警戒心もしめしている。声を揃えて作品を読むことでの良さを評価しつつ、そのカタルシスは全体主義につながるという警戒心のようだ。

Enjoy Simple Englis で「山月記」を英語で読んでみようとしたことから、大変難しい話になってしまった。
作者の中島敦さんも、自分の書いた作品が全国のほとんどの高校生が読むようになっているとは、想像もしなかったに違いない。
何百何十もの「山月記」にかかわる論文や評論、レポートがある。ネットで検索しても何十と出てくる。
私などは、本を読んで「おもしろいなあ」「この作者の他の作品をよんでみようかなあ」ぐらいで十分なのだが、全集が出るような文学作品ともなると、そうはいかないらしい。教える高校の先生のプライドもあるのかもしれない。
実はこの「山月記」にかかわっては、日本人の読解力が深く関わっていることでネットで炎上した話題があった。それは次回に。

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA