大阪市立精華小学校跡

今年の夏に、なんば高島屋前から写した写真。

同じ場所から2018年2月末に写したもの。

現在は「エディオン」の大きなビルが建っている。
左はその建設中のものだが、もともとここには何が建っていたのだろう。

建物は建ってしまったり、壊してしまったりすると、それ以前にそこに何があったのだろうか?と疑問に思うことが多い。
人間は見ているようで、見ていない。覚えているようで、覚えていないことが多いと私は思う。

一番上の写真にあるエディオンのビルの裏側、知る人は知っている老舗の欧風レストラン「重亭」側に回ってみると、左のような入口がある。
そこにあるのが、「大阪市立精華小学校」の記念碑とメモリアルルーム。

その入り口にあるパネルには次のようなことが書かれている。

「精華小学校のおもかげをここにー明治6年に創設され平成7年3月までの122年間、地域の子どもたちの学び舎だった大阪市立精華小学校がこの地にありました。一世紀を超える年月に渡り子どもたちを育み、見守り続けた校舎でした。
昭和4年に建てられた鉄筋校舎の姿は、アーチ状の梁や天井、シャンデリア照明を備え美しく、戦時下の炎にも負けることなく立派に残り続けた文化的存在でもありました。
大阪市立南小学校との統合により役目を終え閉校となりましたが、地域の人々の心に、その姿は残っています。
そんな精華小学校のおもかげを踏襲し、子どもたちの笑顔あふれる未来へと繋げていく建築をこの地に再び造りました。
        旧精華小学校校舎概要:  
        起工昭和2年3月、竣工昭和4年11月、閉校平成7年3月  」

メモリアルルームには精華小学校で使われていたシャンデリアや照明器具が使用されているそうだ。
ここには122年の歴史が新聞記事や写真、年表などが展示されていて、地元の人達の寄付金で建てられた、東洋一の小学校校舎といわれた当時の様子がしのばれる。

私の一番の関心は「朝の給食」だった。
左の新聞記事は昭和40(1965)年10月23日号(毎日新聞)。
このメモリアルルームルームに掲示してある資料を写真にとったもの。
上の「朝の給食(地下食堂」」という写真もそうである。

新聞記事を見てみると、「学校給食あれこれ」「朝ごはんを14年」「大阪商家の子らに」という見出しが見える。

記事によると「大阪ミナミの繁華街にある市立精華小学校の”おはよう給食”はもう14年も続いている。まだ”戦後”だった昭和27年(1952年)、商売で忙しい家庭の子供たちのためにと始められた朝食給食は・・・」とある。もう少し読んでいくと、
「同校の朝食給食は(昭和)27年から始まった。教頭の川北信雄さんが朝礼で倒れるものや、昼前にボンヤリしているものが多いのを不審に思って調べたところ、朝食抜きで登校する児童が三分の一もいた。『これでは授業もロクに頭に入らない』と思い切った朝食給食が始まったわけだ。」と書かれていた。
メモリアルルームルームの年表によると「昭和24年(1949年)10月に地下給食調理室完備」「昭和25年(1950年)5月地下食堂完成」とある。
早い時期から「朝の給食」が始められたことがわかる。

 

私は精華小学校に朝の給食があることは、知っていた。小学校の担任の先生から「なんばの商店街にある学校では、夜遅くまでお店をやっていたり、家の仕事で朝ごはんを食べられない子が多いから、学校で朝の給食がある」というような話を聞いていた。
そういう学校もあるのだなあ、となんの疑問もなく受け入れていた。
今、「子ども食堂」や「朝給食」が話題になっている。地域の人の善意と好意で運営されているところがほとんどだと思う。私は精華小学校のような取り組みがなぜ当たり前にならないのかなあと思っていた。行政として、社会として、子どもの朝の食事を保障する取り組みが戦後すぐから始まっていたのに。
記念碑のそばにはソメイヨシノが旧精華小学校から移植されている。根本のパネルには「精華桜(ソメイヨシノ) かつて、地域の子供たちの成長を見守っていた旧大阪市立精華小学校の桜。再びこの地で、地域の人々と訪れる多くの人々に愛されることを願い、3本の移植を行いました。 市政100周年記念(平成元年11月)に大阪市より旧大阪市立精華小学校へ贈呈されたソメイヨシノ」と書かれている。
こういった記念碑や思い出の桜、メモリアルルームルームを残すことはとても大切なことだと思う。地域の学校として残しておくべきものだと思う。

上の写真は同じ場所から撮ったもの。左はかつて精華小学校の入り口があったところ。閉校の後、「大阪市精華学習ルーム」として使われていた。(この写真は次のブログより引用している。http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-521.html  )
右の写真は現在のもの。エディオンの入口になっている。ここからはかつてここに小学校があったとは想像もできない。

 

 

 

学童疎開 朗読会

大阪市立中央図書館で、学童疎開についての朗読会があった。

読売新聞の記事によると、
「太平洋戦争末期の学童疎開の経験者でつくる『国民学校と学童疎開を考える会』が、会員の高齢化のため9月末で解散することを決めた。
次世代に体験を語り継ぐため、会員の手記をまとめた本を出版。活動の締めくくりとして21日に大阪市内で本の朗読会を開く。
 同会は2009年、関西などの疎開経験者や、児童を引率した教諭ら約110人で結成され、語り部活動やシンポジウムで平和の尊さを訴えてきた。しかし平均年齢は現在、84〜85歳になり、会員数も約50人に減少。会を率いてきたメンバーが相次ぎ亡くなったため、6月の臨時総会で解散を決めた。・・・・朗読会では4人が自らの手記を朗読する。大阪市立中央図書館5階大会議室で開催。無料、定員300人(先着順)」あった。

私の知り合いも朗読するので参加することにした。

資料によると、朗読する4人は、

神埼房子さんの「戦争は敗戦になっても終わらなかった。」

山下良寛さんの「両親と離れても懐かしい疎開の生活」

秋山美代子さんの「弟二人を連れて下市に縁故疎開」

田中洋子さんの「台湾でも日本人学童が集団疎開」

であった。
私の知らないことをたくさん知ることのできた、4人の体験談だった。

秋山美代子さんの手記から当時の様子を紹介してみたい。秋山さんは昭和8(1933)年うまれ。敗戦後、大阪市の小学校教員になった。

「・・・・昭和19年6月末、学童疎開が決まったのだ。縁故疎開をする者はそこへ。縁故疎開地がない者は、集団疎開することになった。
 私(6年)は、達夫(4年)、正彦(2年)の弟二人を世話する約束で、下市の願行寺へ縁故疎開で行くことになった。
 折しも願行寺には、大阪市立河堀国民学校の4年生、5年生が集団疎開で来ていた。現在の天王寺区にある大阪市立聖和小学校である。
・・・・食べる物は、米粒を探さないと見つからないほどの「大和の茶がゆ」、甘みもなく、すじばかりのさつまいもの種いもなどで、おかずが思い出せない。
 夜はひもじくて納屋にあった「ぬか」を火鉢で焙烙(ほうろく)の上にのせ、煎って食べたものだ。そして私がたいへんだったと記憶するのが弟二人の靴下の繕いであった。
 戦時中、配給される靴下は、ステーブル・ファイバー、いわゆる「スフ」で作られていた紙の繊維で編んだ靴下である。元気盛りの弟二人だから、すぐに破れるのだ。寒い冷たい部屋で毎晩のように靴下を繕わねばならなかった。
・・・・・虱がわいて、川堀校の先生方が地輪という大きな鍋で、子ども達の衣類を炊いて虱を駆除することを毎日のようにしておられた。おおきな鍋のお湯の表面に無数の虱がもがいていた。
 「奈良の三名公園」の一つと言われていた願行寺の庭の縁側で子ども達が日向ぼっこをしながら、ずらっと並んで「虱つぶし」をしていたのが思い出される。私達三人も、虱退治をよくしたものだ。
・・・・・8月14日、森ノ宮から京橋にかけてあった陸軍歩兵工廠へのアメリカ軍の「最後の爆撃シリーズ」の空襲で、私の家は、本堂も庫裡も壊れた。
 翌8月15日、敗戦。
 家もなく、食べるものもなく、着るものもない。
 私は、これからどうなるか不安で、毎晩のように月を見上げて泣いた。
 下の弟二人が、栄養失調で死んだ。
 もう戦争は嫌だ!
 「心に、平和の砦を・・・」

 秋山さんは教員を退職した後は、戦争の語り部を続けている。

台湾にも米軍の空襲があった

田中陽子さんは台湾で生まれている。
太平洋戦争中の台湾は日本の統治下にあった。
米軍は昭和20(1945)年5月31日に台湾の台北市に約3800発の爆弾を投下している。
田中さんたちは空襲を避けるために疎開をしている。手記によると「国民学校3年生から6年生の子どもたちは汽車に乗って学童疎開」をしている。

 空襲や学童疎開は日本本土だけかと思っていたが、そうではなかったのだ。

左の本は当日手に入れた本。

第1部には「国学考(国民学校と学童疎開を考える会)の記憶と記録」として、学童疎開の体験記、学童疎開ついての資料がたくさん載せられている。
第2部は、「戦争を生き延びた子どもたち」と題して「学童疎開展実行委員会事務局」の発行の本が合冊の形でついている。

朗読された神崎房子さんの手記に、「当時の集団疎開の生活費は一人10円だ。二人の子供に毎月20円の出費が負担になり、後に集団疎開は私一人だけになった。」と書かれている。私は集団疎開に家庭からの負担金があったことは全く知らなかった。
国策の学童疎開だから、すべて国の費用で賄われていたと思っていたが、そうではなかったのだ。
昭和19年当時の10円というのは、どれくらいのものなのだろう。ネットで調べてみると、昭和19年の教員の平均給料は50円だったという。収入の1/5である。
子ども二人を疎開させると毎月20円、三人だと30円と家計を圧迫したに違いない。お金や寝具、衣類を用意できない家庭の子どもは、空襲のある都会に残らざるを得なかった。学校ごと集団疎開から除外されたところもあったという。
戦争中にも格差と差別はあったのだ。

この本の資料によると、学童疎開は日本だけではなかった。
第一次世界大戦、第二次世界大戦を通じて多くの国が学童疎開を行っている。
スペイン、イギリス、フランス、ドイツ、ポーランド、ソ連と、私は知らなかった。
戦争になると子どもたちも大きな被害をおよぼしているのだ。現在戦争状態にあるイランやイラクなどの国々の子どもたちの生活はどうなっているのだろう。学童疎開は過去の話でなない。

テレビ局の取材もあった。
出席されていた人たちの多くは学童疎開を経験された人たちと思う。どんな思いで同じ体験をしてきた人たちの朗読を聞かれたのだろうか。
過去のことではない集団疎開。このことに気づかされた朗読会だった。

 

 

 

 

梶井基次郎作 檸檬

6月号のSimple English の「英語で味わう日本文学」は梶井基次郎作の「檸檬」だった。
檸檬ーなんとも難しい漢字。私は高校の文学史の授業で「檸檬・梶井基次郎」と丸暗記していた。今回「檸檬」を読み返して、「えーっ、覚えていた話と全く違う、、」とぼやいてしまった。私は梶井基次郎作は覚えていたが、小説の内容は全然別の話として記憶していたのだ。
檸檬やら蜜柑やら林檎やら、果物が登場する小説をミックスしておぼえていたようだ。

梶井基次郎の「檸檬」を読み直そうと、図書館で調べていたら、左の本を発見した。

この本は「今読みたい 日本文学」というテーマで、宮沢賢治、夏目漱石、芥川龍之介、中島敦、梶井基次郎、志賀直哉、横光利一、太宰治の代表作の中から選ばれている。それぞれに林修さんの解説がついていて、私の勉強になると思って借りることにした。

ここには梶井基次郎の「檸檬」と「桜の樹の下には」が収められている。

林修さんの解説を読むと、
「『檸檬』という作品に、初めて出会ったのは高校の現代文の授業だったという人は多いでしょう。僕もその一人です。その時の感想は、
『すごい!なんかよくわからないが、すごい!』
興奮した僕は、その日のうちに図書館に行って、彼の他の作品もむさぼり読みました。」
と書かれている。
 私は林さんのように興奮して、図書館に行って他の作品も読もう、という気にはならなかった。そこが林修さんと私の決定的な違いだろう。いいのか、悪いのか、人の感性とはこれほど違っているのだ。

私の印象に残る表現はここ。英語で見ると、

 
 I  tried  to  control  my  jumping  heart.  Then  I  slowly  put  the  lemon  on  top  of  the  tower  of  books.  It  was  well  done.
  I  looked  at  it.  The  lemon  seemed  to  take  the  variety  of  colors  into  its slim  body.  The  atmosphere  became  crystal  clear.  It  felt  like  the  dusty  air of  Maruzen  was  frozen  around  the  lemon.  
 I  looked  at  it  for  a  while.
 Suddenly,  I  had  a  second  idea.  The strange  idea  scared  me.

 “I  will leave  the  lemon  and  the  tower  of  books  as  it  is.
And  then,  I will  go  outside  like  nothing  happened.”

 The  thought  ticklede  me.
 ” Maybe  I  should  go  out.  Yes,  I  will.”
 And  I walked  right  out  of  there.
 The  feeling  made  me  smile  in  the  town.  
 I  was  an  evil  monster.   I  had  left  a  shining golden  bomb  on
 the  Maruzen  bookshelf.
The  bomb  was  going  to  go  off  in  ten  minutes  among  the  art  books.

How  funny  it  would be.
 

原文はこうなっている。

・・・・そして軽く躍り上がる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬を据えつけた。そしてそれは上出来だった。
 見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまっていて、カーンと冴えかえっていた。私は埃っぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれを眺めていた。
 不意に第二のアイディアが起こった。その奇妙なたくらみはむしろ私をぎょっとさせた。
ーそれをそのままにしておいて私は、なに喰わぬ顔をして外に出る。ー
私は変にくすぐったい気持ちがした。「出ていこうかなあ。そうだ出ていこう」そして私はすたすた出ていった。
 変にくすぐったい気持ちが街の上の私を微笑ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けてきた奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

黄金色に輝く檸檬、そしてそれが爆弾のイメージにつながっていく。私の頭の中にもそのイメージは鮮明になる。
その「檸檬」のイメージが、別のエッセイにもでてきたのでびっくりした。

新潮社のフリーペーパーで「波」という雑誌がある。

わりと有名な月間のフリーペーパーで、大きな書店においてあるが、早くになくなる(と私は思う)。その6月号だ。
たくさんのエッセイや評論、対談がのっているが、今の私のおすすめはプレディみかこさんの「ぼくはイエローでホワイトでちよっとブルー」。

福岡県出身の女性で、イギリス人の男性と結婚、中学に通う男の子のおかあさん。
ご主人は長距離トラックの運転手で、プレディみかこさんは保育士さん。

息子さんの中学校での音楽部の春のコンサートの場面でこんな様子が書かれていた。

「鮮やかなオレンジとグリーンのロング丈のワンピースを着て、黄色いターパンを頭に巻いた女性と、その周囲に立っている子どもたち。去年、息子のクラスに転入してきたアフリカ系の少女の家族だ。 黄色いターバンの母親の脇には、中折れのストローハットをかぶったダンディな黒人の中年男性が目の覚めるようなブルーのシャツを着ている。
 それでなくとも黒人の少ない学校だから目立っているのだが、彼らのカラフルなファッションはそこだけ別世界のようだ。陰気な色彩の列の中で、そこだけ原色に輝いていた。梶井基次郎が丸善の店先に置いてきた檸檬の色ってこんな感じだったんだろうかとふとおもった。」

そして少女が歌う『ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム』は、爆弾のように聴衆の心に響いた、という内容の文章が続いていく。この歌の説明をプレディみかこさんの文章から引用すると、
「確かに彼女の歌こそソウルだった。また拍手が巻き起こり、それが静まるのを待って副校長が言葉をつづけた。『この曲を作ったのはサム・クックですが、彼にインスピレーションを与えたのはボブ・ディランでありました。ボブ・ディランの『風に吹かれて』というプロテスト・ソングを聞いたサム・クックが、それに大いに触発され、自分もこのような歌を書くべきなのだ、書いてもいいのだ、と思って作った曲が「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」です。そのことを我々は覚えておくべきだと思います。
 副校長は一度も「黒人」「白人」という言葉を使わなかった。けれども、白人のボブ・ディランが人種差別に抗議する曲を作り、それに黒人のサム・クックが触発されたという、人種の垣根を超えたインスピレーションについて語っているのは明らかだった。」

you tube で A change is Gonna Come を検索するといくつもの紹介がある。知らなかった、こういう歌があることを。
機会があれば「波」6月号を是非読んでほしい。

プレディみかこさんは、梶井基次郎の「檸檬」の文章とイメージをしっかりともっているに違いない。私にはとうていかなわない。
それが文章を読む、ということなのかも知れない。