翻訳ってなんだろう

枕草紙の英訳を読んでいたとき、図書館で左のような本を見つけた。
これは英文を日本語に翻訳するときの苦労や考え方を書いた本だった。

その中に「赤毛のアン」の英文について書かれている章があった。

「赤毛のアン」の日本語の翻訳本は数種類のものがある。
私は古くから有名な村岡花子さんの訳と、最近有名な松本侑子さんの訳の「赤毛のアン」を読んでいる。

本当はモンゴメリーの原文を読めばいいのはよくわかっているが、なかなか手ごわい。原文は買っているが、読み切れていないのが実情。

この「翻訳ってなんだろう」の著者・鴻巣友季子さんは、NHKの100分で名著の放送「風と共に去りぬ」で知った人。

第1章に「モンゴメリ『赤毛のアン』ー『小難しい言葉』を訳すと、『アンの屈折』がわかる」と題して解説がある。
その例文は、

“Oh, I’m so glad she’s pretty. Next to being beautiful oneself – and that’s impossible in my case – it would be best to have a beautiful bosom friend.
When I lived with Mrs.Thomas she had a bookcase in her sitting    room with glass doors.    
There weren’t anybooks in it; Mrs. Thomas kept her best china
and her preserves there – when she had any preserves to keep.     One of the doors was broken.  Mr.Thomas smashed it one night when he was slightly intoxicated.  But the other was whole and I used to pretend that my reflection  in it was another little girl who lived int it. I called her Katie Maurice, and we were very intimate.  I used to talk to her by the hour,   especially on Sunday,  and tell her everything Katie was the comfort and consolation of my life.
(第8章より)     

有名な「腹心の友(bosom friend )」の解説もあるが、そこは省いて、
「Mr.Thomas smashed it one night when he was slightly intoxicated.」と、最後の
「Kate was the comfort and consolation of may life. 」の説明が勉強になった。

ぶち壊したのか? 割ってしまったのか?

smash という単語を見ると、「粉々に打ち砕く」というイメージが私にはある。
本では次のような説明があった。
「わざと叩いたり壊したり落したりしたのか、うっかりの過失なのか、一文だけ読んでもわからない。トマスさんが故意に叩き割ったのか、ぶつかった拍子に割れてしまったのか、前後の文脈で判断することになります。」

その時のトマスさんの様子は、he was slightly intoxicated. と表現されている。

「翻訳者にとって大事なのは、言葉の裏にひそむ真実をあばくことではなく、まずこのときのアンがどのように語っているかを忠実に写し取ることなのです。
slightly  intoxicated ですから、「ほんのり」「かすかに」ということですね。
intoxicated は,「酔った状態」を表します。お酒や薬物であれ、あるいは恋愛感情であれ、なにかにあてられてぼうっとなっている状態です。この表現から暴力性や悪質さは感じ取れません。・・・・intoxicated はもともと「毒を盛る」という意味の中世ラテン語に由来する単語です。英語の中でもラテン語に由来する単語はだいたい観念的、抽象的な語で、少々上等な響きがあります。
アンの台詞とするなら、『ちょっと酩酊したっていうか』という感じでしょうか。いずれにしろ、「ほろ酔い」「一杯機嫌」「ちょっと出来上がって」ぐらいの状態です。」

なるほどなあ、本の翻訳というのはラテン語までさかのぼって、その単語の雰囲気まで知っていないといけないのだなあ、と感心する。

The comfort and consolation

comfort も consolation も私にとってはあまり馴染みのない言葉。
辞書を見ると、comfort ・・・心の安らぎ(をもたらすもの、人)
consolation ・・・慰め、慰めとなるもの 
とあった(オーレックス英和辞典による)

本の解説によると
「2語ともラテン語からフランス語を経由して英語に入ってきた単語です。また、接頭辞が com と con で韻を踏んでいる点にも注目しましょう。これは頭韻といい、英語ではとても詩的な効果を発揮するものです。・・・・ 小さな部分ですが、定冠詞のthe にも目を向けてください。the は comfort の前にあって、 consolation の前にはありません。ということは、この二単語でひとまとまりということです。・・・・
聖書の詩篇119編50節には、こんな下りがあります。

This is my comfort and consolation in my affliction : that Your word has
revived me and given me life.

苦悩のさなかでさえ、これがわたしの安らぎと慰めとなっている。主の御言葉が私を生き返らせ、息吹を与えてくださることが。

the comfort and consolation というのは、熟語というほどではありませんが、ある程度、決まった言い回しでしょう。アンも聖書か何かで覚えたのだろうと思います。・・・・聞きかじりの文言をちよっと意識している感じ。アンの頭の中では、言葉に出さずとも、まさに詩篇の「苦悩のさなかにあってさえ」「わたしを生き返らせ」という言葉が響いていたかもしれません。ずばり詩篇からの引用でないにしても、the comfort and consolation が必要なところには、必ず苦悩や苦しみがあるものです。この言い回しからも、明るく元気なだけでないアンの屈折が感じ取れるかと思います。」

なるほどなあ、とまた思わずにはいられない。アンの言葉遣い、使っている単語からアンの暮らしてきた生活や性格がわかってくる、そんなものかなあと思うが、作者モンゴメリの思いや意図は確かにあっただろうなあと思う。

この部分を松本侑子さんの訳で見てみよう。

ああ、ダイアナが美人で嬉しいわ。自分がきれいなのがいちばんいいけど、私は無理だから、次にいいのはきれいな腹心の友がいることだわ。そういえばトーマスさんの家には、居間にガラス扉の本棚があって、本は一冊もなかったけど、上等な食器と砂糖漬けがしまってあったの、もっとも、砂糖漬けが残っていればだけど。扉は片方、壊れていたの。ある晩、おじさんが酔っぱらって割ったのよ。残りの一枚は無事で、そのガラスに映る自分を、本棚の中に住んでいる女の子だということにしていたの。ケイティ・モーリスといって、とても仲良しだったわ。何時間でもおしゃべりしていたのよ、特に日曜日にはね。ケイティには何でも話したの。ケイティと話すのは楽しかったし、慰められたわ。
本箱には魔法がかかっていて、・・・
 

11歳で少しおませな女の子の様子がつたわってくる。

では村岡花子さんの訳を見てみよう。

まあ、きれいな子でよかったわ。自分が美人なのがいちばんすてきだけれどーそれはあたしにはだめだからー そのつぎにすてきなことは美人の腹心の友をもつことだわ。トマスおばさんのところにいたとき、ガラスのとびらのついた本箱があったの。一枚のとびらはこわれていたけれど、もう一枚のはなんともないのであたし、それにうつる自分の姿を、ガラス戸のむこうに住んでいるほかの女の子だということに想像してケティ=モーリスという名をつけて、とても仲良くしていたの。その本箱に魔法がかかっていて、・・・・

村岡花子さんの訳には、smash や the comfort and consolation の部分は省かれていた。
村岡さんの訳は、子どもが読むことを第一にしているので、省かれている部分も多いといわれているが、これがその例の一つかもしれない。

この『翻訳ってなんだろう?』には、「赤毛のアン」のほかに、
ルイス・キャロルの「ふしぎの国のアリス」、エミリー・ブロンテの「嵐が丘」、エドガー・アラン・ポーの「アッシャー家の崩壊」、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」、ジョージ・バーナード・ショーの「ピグマリオン」、ヴァージニア・ウルフの「灯台へ」、ジェイン・オースティンの「高慢と偏見」、グレアム・グリーンの「情事の終わり」、マーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」が紹介されている。

「あとがき」に、
「・・・プロの文芸翻訳家をめざす方へ。何度も言ってきましたが、訳文だけ上手くなろうとしないでください。よく読めればよく訳せます。外国語なら、ある段階までは『スキル』を磨くことで『上達』することができますが、母語は技術だけを磨いて『上達』することはできません。思考を深め、視野を広げ、知のバックボーンを築くことで、母語は自然と鍛えられ、豊かになるものだと思います。」

なるほど、人工知能による翻訳は進んでも、母語の大切さはかわらない、ということだなと思った。