サトコとナダ

イスラムのことをどれだけ知っているだろう。 そんな時に新聞で紹介されていたコミックを購入した。 それが「サトコとナダ」だ。

私はイスラムの人と話したこともないし、イスラムをテーマにした講演会などに行ったこともない。

海外旅行でドバイに行った時に自分の目でアラブの人たちを見ることはあったが、ガイドさんの説明を聞くだけの旅だったので、ドバイの人たちと話をする機会もなかった。

最近大阪でも、イスラムの人達の姿を見ることが多くなってきたので、少しは勉強しておかなくてはと思ったので、まず漫画から智識を得ようとした。

二人の出会いが、「そうだなー、はじめての出会いって、こんなんだろうなあ〜」と実感がわきそうなもの。舞台はアメリカに留学中の日本人サトコとサウジアラビアのナダのルームシェアからはじまる。イスラムのことを何も知らないサトコの感覚は私と一緒。絵も丁寧に書かれているので、引き込まれて読んでしまう。

もう少し文字の多い本で、と思って見つけたのがこの本。

本の題名が「サトコとナダ」から、と書いてあるので漫画の本と関係する著者が書いたものかなとおもったが、そうではなかった。
第1章のみが、漫画からの画面が引用されていたが、それ以外はまったく漫画の絵はなかった。

この本のカバーには次のように書かれている。
「皆さんはイスラムにどんなイメージをお持ちですか? メッカに向かって祈りを捧げる人々、ベールをまとう女性、遠い世界のちょっぴり怖い人たち・・・? メディアで取り上げられるイスラムは極端なものばかりなので、ネガティブな印象を持つ方も少なくないでしょう。そこで本書では、イスラムがいつどのようにして生まれたのか、その歴史的背景を紐解くことで、イスラムに対するステレオタイプなイメージをリセットし、よりよいお付き合いのためのヒントを探ってゆきます。我々が知らないうちに身に着けていた、偏見や思い込みというベールを、一旦脱いでみませんか? きっと、多様で豊かなムスリムの姿が見えてくるはずです!」

アルハンブラ宮殿では豊かなイスラム文化を知ることができた。しかし多様な姿にふるれことはまだまだ少ないのが現実だ。

「サトコとナダ」の絵を使って、イスラムの多様な姿が本の最初に紹介されていた。
イスラムといえば、上の絵の右端の男性、左端の女性が思い浮かぶがそうではないことが一目で分かるようになっている。イスラム教の信者は11億3000万人、世界の四人に一人はイスラムに関係する人たちだそうだ。
新書判らしく読みやすく、本のタイトル通り「イスラム入門』だと思う。

もう少し勉強用の本はないかなあと探していて、見つけたのが右の本。

池上彰さんの本で、写真や地図も多く大変読みやすくできている。

P40に『イスラム教は平和を求める宗教』という章がある。「現在、イスラム教徒の、ごく一部の人々が自爆テロなど過激な行動をとっているために、イスラム教に悪いイメージをもつ人が増えています。」と解説が続く。
なぜ過激派がでるのだろう、その根拠はなんだろう?という疑問がずっとあった。

池上さんは「過激派のまちがった『コーラン』解釈」と説明されている。

・・・・・・・・・

「コーラン」には、つぎのような記述があります。

1.「汝らに戦いを挑むものがあれば、アッラーの道において堂々とこれを迎え撃つがよい。だがこちらから不義を仕掛けてはならぬぞ。アッラーは不義なす者どもをお好きにはならぬ」(コーラン第2章より)
2.「もし汝らが(戦場で)死んだり殺されたりした場合、必ずアッラーのお傍に呼び集め戴けるのだぞ」(コーラン第3章より)

 「イスラム原理主義過激派」と呼ばれる人々は、「コーラン」のこうした記述から、自分たちのテロや破壊行為を、イスラム教の教えを守るための「ジハード(聖戦)」だと主張します。また、彼れは、2から(イスラムのために戦死したら、すぐに天国にいける」とも考えています。

 もともと「ジハード(聖戦)」とは、「イスラムの道に信者一人ひとりが努力すること」という意味です。「イスラムの教えを守り、広めるために戦争をしてもよい』という意味ではありません。・・・・略・・・・・この「努力」を意味する「ジハード」が、日本語では「聖戦」と訳されたこともあり、戦争のイメージが強くなってしまい、いまも誤解されているのです。

・・・・・・・・・

誤解となったもとの原因を根拠をあげて説明されているのは、池上さんらしいと思った。
この本のまえがきに「宗教は人の幸せをめざすものであるはずなのに、どうして宗教をめぐって不幸がおこるのでしょうか? このことについても一緒に考えていきましょう」と書かれている。
考えるための根拠や歴史的背景が紹介されている本だと思った。

わずか3冊で何がわかるか、とも思うが、考えていくための材料にはなっていると思う。

マンガの「サトコとナダ」は全4巻で終わりになっていた。

このマンガの監修の西森マリーさんは第4巻の最後の「完結によせて・西森マリー」に文章を寄せている。その最後にこう書いている。

「紙に導かれた出会いの産物、『サトコとナダ』をお読みになったみなさんが、世界観をさらに広げ、それと同時に日本のすばらしさをより深く味わうことができますように。
インシャーアッラー」

広い世界観をもちたいものだとつくづく思う。

 

翻訳ってなんだろう

枕草紙の英訳を読んでいたとき、図書館で左のような本を見つけた。
これは英文を日本語に翻訳するときの苦労や考え方を書いた本だった。

その中に「赤毛のアン」の英文について書かれている章があった。

「赤毛のアン」の日本語の翻訳本は数種類のものがある。
私は古くから有名な村岡花子さんの訳と、最近有名な松本侑子さんの訳の「赤毛のアン」を読んでいる。

本当はモンゴメリーの原文を読めばいいのはよくわかっているが、なかなか手ごわい。原文は買っているが、読み切れていないのが実情。

この「翻訳ってなんだろう」の著者・鴻巣友季子さんは、NHKの100分で名著の放送「風と共に去りぬ」で知った人。

第1章に「モンゴメリ『赤毛のアン』ー『小難しい言葉』を訳すと、『アンの屈折』がわかる」と題して解説がある。
その例文は、

“Oh, I’m so glad she’s pretty. Next to being beautiful oneself – and that’s impossible in my case – it would be best to have a beautiful bosom friend.
When I lived with Mrs.Thomas she had a bookcase in her sitting    room with glass doors.    
There weren’t anybooks in it; Mrs. Thomas kept her best china
and her preserves there – when she had any preserves to keep.     One of the doors was broken.  Mr.Thomas smashed it one night when he was slightly intoxicated.  But the other was whole and I used to pretend that my reflection  in it was another little girl who lived int it. I called her Katie Maurice, and we were very intimate.  I used to talk to her by the hour,   especially on Sunday,  and tell her everything Katie was the comfort and consolation of my life.
(第8章より)     

有名な「腹心の友(bosom friend )」の解説もあるが、そこは省いて、
「Mr.Thomas smashed it one night when he was slightly intoxicated.」と、最後の
「Kate was the comfort and consolation of may life. 」の説明が勉強になった。

ぶち壊したのか? 割ってしまったのか?

smash という単語を見ると、「粉々に打ち砕く」というイメージが私にはある。
本では次のような説明があった。
「わざと叩いたり壊したり落したりしたのか、うっかりの過失なのか、一文だけ読んでもわからない。トマスさんが故意に叩き割ったのか、ぶつかった拍子に割れてしまったのか、前後の文脈で判断することになります。」

その時のトマスさんの様子は、he was slightly intoxicated. と表現されている。

「翻訳者にとって大事なのは、言葉の裏にひそむ真実をあばくことではなく、まずこのときのアンがどのように語っているかを忠実に写し取ることなのです。
slightly  intoxicated ですから、「ほんのり」「かすかに」ということですね。
intoxicated は,「酔った状態」を表します。お酒や薬物であれ、あるいは恋愛感情であれ、なにかにあてられてぼうっとなっている状態です。この表現から暴力性や悪質さは感じ取れません。・・・・intoxicated はもともと「毒を盛る」という意味の中世ラテン語に由来する単語です。英語の中でもラテン語に由来する単語はだいたい観念的、抽象的な語で、少々上等な響きがあります。
アンの台詞とするなら、『ちょっと酩酊したっていうか』という感じでしょうか。いずれにしろ、「ほろ酔い」「一杯機嫌」「ちょっと出来上がって」ぐらいの状態です。」

なるほどなあ、本の翻訳というのはラテン語までさかのぼって、その単語の雰囲気まで知っていないといけないのだなあ、と感心する。

The comfort and consolation

comfort も consolation も私にとってはあまり馴染みのない言葉。
辞書を見ると、comfort ・・・心の安らぎ(をもたらすもの、人)
consolation ・・・慰め、慰めとなるもの 
とあった(オーレックス英和辞典による)

本の解説によると
「2語ともラテン語からフランス語を経由して英語に入ってきた単語です。また、接頭辞が com と con で韻を踏んでいる点にも注目しましょう。これは頭韻といい、英語ではとても詩的な効果を発揮するものです。・・・・ 小さな部分ですが、定冠詞のthe にも目を向けてください。the は comfort の前にあって、 consolation の前にはありません。ということは、この二単語でひとまとまりということです。・・・・
聖書の詩篇119編50節には、こんな下りがあります。

This is my comfort and consolation in my affliction : that Your word has
revived me and given me life.

苦悩のさなかでさえ、これがわたしの安らぎと慰めとなっている。主の御言葉が私を生き返らせ、息吹を与えてくださることが。

the comfort and consolation というのは、熟語というほどではありませんが、ある程度、決まった言い回しでしょう。アンも聖書か何かで覚えたのだろうと思います。・・・・聞きかじりの文言をちよっと意識している感じ。アンの頭の中では、言葉に出さずとも、まさに詩篇の「苦悩のさなかにあってさえ」「わたしを生き返らせ」という言葉が響いていたかもしれません。ずばり詩篇からの引用でないにしても、the comfort and consolation が必要なところには、必ず苦悩や苦しみがあるものです。この言い回しからも、明るく元気なだけでないアンの屈折が感じ取れるかと思います。」

なるほどなあ、とまた思わずにはいられない。アンの言葉遣い、使っている単語からアンの暮らしてきた生活や性格がわかってくる、そんなものかなあと思うが、作者モンゴメリの思いや意図は確かにあっただろうなあと思う。

この部分を松本侑子さんの訳で見てみよう。

ああ、ダイアナが美人で嬉しいわ。自分がきれいなのがいちばんいいけど、私は無理だから、次にいいのはきれいな腹心の友がいることだわ。そういえばトーマスさんの家には、居間にガラス扉の本棚があって、本は一冊もなかったけど、上等な食器と砂糖漬けがしまってあったの、もっとも、砂糖漬けが残っていればだけど。扉は片方、壊れていたの。ある晩、おじさんが酔っぱらって割ったのよ。残りの一枚は無事で、そのガラスに映る自分を、本棚の中に住んでいる女の子だということにしていたの。ケイティ・モーリスといって、とても仲良しだったわ。何時間でもおしゃべりしていたのよ、特に日曜日にはね。ケイティには何でも話したの。ケイティと話すのは楽しかったし、慰められたわ。
本箱には魔法がかかっていて、・・・
 

11歳で少しおませな女の子の様子がつたわってくる。

では村岡花子さんの訳を見てみよう。

まあ、きれいな子でよかったわ。自分が美人なのがいちばんすてきだけれどーそれはあたしにはだめだからー そのつぎにすてきなことは美人の腹心の友をもつことだわ。トマスおばさんのところにいたとき、ガラスのとびらのついた本箱があったの。一枚のとびらはこわれていたけれど、もう一枚のはなんともないのであたし、それにうつる自分の姿を、ガラス戸のむこうに住んでいるほかの女の子だということに想像してケティ=モーリスという名をつけて、とても仲良くしていたの。その本箱に魔法がかかっていて、・・・・

村岡花子さんの訳には、smash や the comfort and consolation の部分は省かれていた。
村岡さんの訳は、子どもが読むことを第一にしているので、省かれている部分も多いといわれているが、これがその例の一つかもしれない。

この『翻訳ってなんだろう?』には、「赤毛のアン」のほかに、
ルイス・キャロルの「ふしぎの国のアリス」、エミリー・ブロンテの「嵐が丘」、エドガー・アラン・ポーの「アッシャー家の崩壊」、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」、ジョージ・バーナード・ショーの「ピグマリオン」、ヴァージニア・ウルフの「灯台へ」、ジェイン・オースティンの「高慢と偏見」、グレアム・グリーンの「情事の終わり」、マーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」が紹介されている。

「あとがき」に、
「・・・プロの文芸翻訳家をめざす方へ。何度も言ってきましたが、訳文だけ上手くなろうとしないでください。よく読めればよく訳せます。外国語なら、ある段階までは『スキル』を磨くことで『上達』することができますが、母語は技術だけを磨いて『上達』することはできません。思考を深め、視野を広げ、知のバックボーンを築くことで、母語は自然と鍛えられ、豊かになるものだと思います。」

なるほど、人工知能による翻訳は進んでも、母語の大切さはかわらない、ということだなと思った。

 

 

 

 

難波神社寄席 第三問

さて桂文喬さんの落語「宿題」からの最終問題。

4人姉妹で、サクランボを分けました。  
4人で分けると1個余ったので、鳥にやりました。  
食べようとしたら友達が来たので、友達に1人分あげました。  
3人分を4人で分けると2個あまったので、鳥にやりました。  
食べようとしたらお父さんが帰ってきたので、お父さんに1人分あげました。  3人分を4人で分けたらちょうど割り切れたのですが、最初に分けたときよりも10個ずつ少なかったのです。  
さて、サクランボは全部で何個あったのでしょうか。

関係が理解し難いので絵に表してみよう。

一番最後のさくらんぼ一人分の個数をn個とすると、このときのさくらんぼ全体の量は4n個となる。

①.一つ前の段階に戻って、「お父さんのさくらんぼを含めて」このときのさくらんぼの量は 4n+4/3n 個になる。
 A’+B’+C’=4*n だから A’=B’=C’=4/3*n

②.一つ前にもどって、A’+B’+C’+D’+2=4(4/3*n)+2 となる。

③.さらに一つ前に戻って、A=B=C=(友達の分)だから
 A+B+C+(友達の分)=4*{4(4/3*n}+2}/3
            =(64/9)*n+8/3

④.③で求めた数が4姉妹の合計数だから4で割ると一人分が出る。その数は
  最後の数であるnより10多いので、

  {(64/9)*n+8/3}/4=n+10 これを計算すると
    (64/9)*n+8/3=4n+40
       64n+24=36n+360
         64n−36n=360−24
           28n=336
             n=12
  nは一番最後のさくらんぼ一人分。その数は最初の数より10小さい。
  したがって最初のさくらんぼの合計数は (12+10)*4+1=89

  答え 最初のさくらんぼは合わせて89個あった。

なんとも面倒な計算になってしまった。

本当にこんな問題が小学校の宿題ででるのだろうか。
この落語「宿題」は桂三枝さん(現在の桂文枝さん)の創作落語。どこでこの題材を見つけ出してきたのか大変興味があるところだが、私にはよくわからない。

落語「宿題」では、上のような計算までは含まれていなかった。
わけのわからない問題に怒り心頭のお父さんは塾に文句を言いに行く、抗議に行く、怒鳴り込みに行く、実際はどのへんの段階なるのかわからないが・・・
「こんな問題をださないでくれ」と怒ったお父さんに、塾の先生はなんと返答したのか、それがこの落語「宿題」のさげ、おちになるのだが、そこは実際に聞いて確かめることをおすすめする。

しかし桂文喬さんはよく覚えているなあと感心する。
文章問題の問題文、解答のための数字や計算式、丸覚えするといっても意味がわからなければ暗記もできないだろうに、と思う。そうすると桂文喬さんも紙の上で計算式を何回も書いて覚えたのかなあと思ったりするが、古典の演目だけでなく、新作落語にも芸の幅を広げようとする前向きさには、私も見習わなくてはと感じた。

落語は繁昌亭だけでなく、いろんなところでおこなわれているようだ。
繁昌亭のようなしっかりとした寄席だけでなく、難波神社寄席のように大会議室のような部屋を寄席風にレイアウトを変えてやっているところもあるそうだ。
機会があれば、いろんな寄席に行ってみたいし、落語だけでなく上方演芸にもっと親しみたいと思う今日このごろだ。