松下幸之助創業と起業の地

環状線お散歩フォトの続き

西九条駅を出発した「お散歩フォト」は、野田阪神で解散したが、最後に写真を撮ったところが、今回のブログの題にある「松下幸之助創業の地」の碑。

野田阪神駅付近から西野田工科高校の方に向かって歩いていくと、
商店街の喫茶店にこんな表示が。

ここは「大開公園」。幼稚園がそばにあるので、園児さんが遊び、保護者の人たちが談笑している。春になると「のだふじ」で、辺り一面が紫色になるのだろう。それが喫茶店のボスターに表れている。

松下幸之助さんの字なのだろう。

「自分には
自分に与えられた道がある 広い時もある
せまい時もある
のぼりもあれば くだりもある
思案にあまる時もあろう
しかし 心を定め
希望をもって歩むならば
必ず道はひらけてくる
深い喜びも
そこから生まれてくる

   松下幸之助」

 

この碑の説明を見ると、

  記念碑「松下幸之助 創業の地」由来
       松下幸之助氏:1894.11.27 〜 1989.4.27 和歌山県海草郡和佐村出身   この地大開は、松下電器産業株式会社の創業者 松下幸之助氏が大正7年(1918)3月7日、同社の前身「松下電器器具製作所」を創立した創業の地です。のちに経営の神様と呼ばれ世界中にその名を馳せた松下幸之助氏は23歳の若さで配線器具の製造・販売を始め、昭和8年(1933)に門真市に移転するまでの15年余をこの地で過ごし、事業の進展とともに逞しく大開から巣立っていきました。  松下幸之助氏は大開の人情や風土に育まれ、大開小学校の保護者会会長や大正14年(1925)には区会議員に当選するなど、文字どおり大開の一員として充実した日々を過ごしました。松下電器の業容の発展に伴い移転を余儀なくされたものの、終生本籍をおいていたことが物語るように大開きは同氏ときわめてゆかりの深い土地であります。

なるほど、ここは由緒ある場所だとわかる。

公園のそばにある西野田工科高校。そのフェンスに「創業の家 跡」という案内板がかけられている。高校の道路向かい側に、その「創業の家」があったそうだ。
今は全く別の人の家が建っている。なんとなくその時代の雰囲気を感じる・・・。

 

東成区・猪飼野にある「松下幸之助起業の地」

上の写真は、地下鉄「今里駅」の構内にある、付近を案内地図。 ここに「松下幸之助起業の地」と書かれた場所がある。
以前に行ったことがあるのだが、大開の「松下幸之助創業の地の碑」を見たので、きちっと写真に取っておこうと思い、出かけることにした。

1番出口から東成図書館、区民センター、ライフを目印にして少し歩くと、

幾つか案内板がかけられている。その地図に従って、住宅道路を進むと、

何か立て看板、案内板が見えてくる。

お寺の入口に「此付近 松下幸之助起業の地」と書かれた石碑が建っている。

そばの説明板には

此付近 松下幸之助起業の地

旧地名 大阪府東成郡鶴橋町大字猪飼野1399 1400番地
現地名 大阪市東成区玉津2丁目7および14

松下電器産業を興し「経営の神様」と称された故・松下幸之助氏(明治27年〜平成元年)は現・和歌山市の生まれ。
9歳で母のもとを離れて大阪に出、丁稚奉公を経て15歳で大阪電灯株式会社の配線工となりましたが、大正6年22歳の時、自ら考案した「松下式ソケット」を事業化するため会社を退職、この場所で独立の一歩を踏み出しました。
 4畳半と2畳の借家の小さな工場で、幸之助夫妻と義弟の井植歳男氏(後の三洋電機創業者)が工夫と努力を重ね、多くの困難を乗り越えて、やがて世界的大企業とする基盤はここで培われたのです。 
 東成・生野(旧・猪飼野)は古代から先進的な技術者の集まった土地で、この地の「もの作り文化」は現代にいたるまで数々の独創的な企業を生み、大阪の経済発展に大きな役割を果たしてきました。
幸之助氏がここで業を興したのも、東成・生野の地に新しい産業を受け入れるだけの、多くの先人が耕した豊かな土壌があったからにほかなりません。

 本年は松下幸之助氏の生誕110年に当たります。
この偉大な企業家をこの地域の「もの作り文化」の象徴・わが町の誇りとして、起業の地に顕彰碑を建立いたしました。

            平成16年11月
                  「松下幸之助起業の地」顕彰会

 

インターネットなどで調べてみると、
碑文にあるように大正6年6月にこの猪飼野の地で、電球ソケットの製造・販売を開始している。経営が軌道に乗った1918年(大正7年)に、大開に住居兼工場を構え、「松下電器器具製作所」を創業したそうだ。

つまり、松下電器・パナソニックは、猪飼野で仕事を始め、大開で「松下電器器具製作所」を旗揚げしたことにより、現在に至っているのだ。

環状線お散歩フォトで、大開にある「松下幸之助創業の地」の「記念碑」をみたことから、猪飼野にある「松下幸之助起業の地」の記念碑に広がった。これもおもしろいことだなあ、と思うとともに、記念碑のようなものがあることが、地元に人たちにとって過去と現在をつなぎ、未来へ展望できるきっかけになるのだなあと考えることができたお散歩フォトだった。

 

大阪環状線撮り歩き  西九条駅

ここはJR環状線と阪神電車が交差する駅、またUSJへの乗り換えの駅で知られている「西九条駅」。 下水道科学館、松下幸之助ゆかりの地、そして「野田阪神駅」までの道を歩いた。

西九条駅の周辺には飲み屋さんや食べ物屋さんが多い。野田阪神までを歩きながらおもしろそうな看板のお店のスナップ写真をとる。

朝なのでどのお店も開いていない。
夕方にでもなれば照明がつき、シャッターがあき、また違った雰囲気になるのだろう。

安治川と淀川に挟まれた地域、水防碑が建っている。大きな被害があったのだろう。

遠くに見えているのが、前回見た安治川の防波堤。小さく写っている。

おもしろいものを発見。「初代船奉行所跡」とある。説明書きによると、
「大阪船奉行は元和6年(1620年)に、近世には難波津に代わって大坂の要津として,賑わっていた伝法・四貫島に設置され、徳川幕府最初の大坂船奉行所を四貫島村としました。公事屋敷が185軒あるという規模で、6軒や3軒で村がある時代の全国約200藩中で日本一の船奉行所になります。」

そんなすごいものが、西九条の四貫島にあったとは、全く知らなかった。

下はキュウリの花。こんな花が咲くんだなあ。

ここは千鳥橋。橋といっても下には川は流れていない。

河川敷の広場にある不思議な建物。これは一体なんだろう。
実はここはかつては川だったけれど、川の跡を利用しして高速道路のトンネルが走っているそうだ。そしてこの不思議な建物は、トンネルの非常用地上出口。
「阪神高速 地上出口 EXIT  淀川左岸線 正蓮寺川トンネル
 非常出口 非常口 E10 この建物は非常時の非常口で、平常時の使用を禁止しています。・・・略・・・」と書かれている。
高速道路のトンネルの非常口が河川敷にあるとは・・・初めて見た。

この付近は住宅の工事が進んでいる。

工事現場にあった「騒音計と振動計」。右の数字がおかしい?
実はこれはシャッタースピードを変えたから。
右の写真シャッタースピードは125分の1秒。左は30分の1秒。
赤いLEDは点滅しているので、早いシャッタースピードだと数字の一部しか写らないということだ。写真を撮ると、こういった勉強にもなる。

ここは「フローラルタウン南」という所。

広い公園と高層団地。かつてここは工場だったそうだ。工場の跡地に団地と公園がつくられていると、以前この付近にいた人が言っていた。

人工的な直線や曲線が目に入ってくる。

下水道科学館があった。無料で中を見学できる。いつか見学したい所。

金網の中にあるコンテナハウス。ボーイスカウトの事務所だった。

「正一位 互譲稲荷大明神」いい名前のお稲荷さんだ。

「被爆者慰霊 平和の碑」。大阪、西九条の地で、「被爆慰霊の碑」があるなんて。
大阪大空襲だろうか、なにかいわれがあるのだろう。合掌。

昭和の町並みが残っている。

ガード下のお店の看板がカラフルでおもしろい。

さあ、野田阪神に近づいてきた。

面白い看板のお店もでてくる。チャボというからニワトリかな?と思うと「茶暮」。
ブタがお店の前でお出迎えもなんか楽しい。金網のように固いお仕事のお店もある。

福島区海老江の住居表示の看板の色は紫。何か新鮮な感じ。この辺は「のだふじ」という藤の花で有名なところ。だから住居表示もフジ色を使っているのだろう。

今回のお散歩フォトは、「野田阪神」で解散。日は照らなかったが、さすが2時間半を歩き通すとつかれた。ご苦労様。

 

 

 

 

アメリカ東海岸 「若草物語」と「あしながおじさん」の旅 26

番外編

25回の連載で書けなかったことをここで書いておこうと思う。

アメリカの郵便ポスト

アメリカの郵便ポストは青い。国によってポストの色は違うのだ。

文学史年表

こんな機会だからと年表を作ってみた。
画面では読みにくいが、クリックすると拡大する(はず)。
エマソン、ホーソン、ソロー、ルイーザ・メイ・オルコット、マーク・トウェイン、ロングフェロー、ハリエット・ビーチャ・ストウ、ジーン・ウェブスター、ルーシー・モンゴメリーの9人だ。
全員が江戸時代、明治時代の人たちだ。また南北戦争を経験している。
1862年の奴隷解放宣言後に生まれたのは、ジーン・ウェブスターとルーシー・モンゴメリーだけ。
ルイーザ・メイ・オルコットの少女時代にエマソン、ホーソン、ソローが大人だったこともわかる。

南北戦争の前後に、今回のツアーに関係する人たちが作品を書いている。
ロングフェローの「ポール・リビアの騎行」と南北戦争が重なっているのは、そういう時代背景があったのかと考えさせられる。

ルイーザ・メイ・オルコットの書いた「若草物語」を、ジーン・ウェブスターやルーシー・モンゴメリーが 少女時代に読んだことが想像できる。また「若草物語」に「アンクル・トムの小屋」が登場するのもうなずける。

ジーン・ウェブスターが「あしながおじさん」を書く前に世界旅行をし、日本にも立ち寄ったのは、明治時代だったこともこの年表から確かだ。
まだまだ私の知らないことが読み取れるのかもしれないが、私の力ではここまで。

旅の後で読んだ本

たまたま図書館で目に入った本。この本の著者のパトリシア・マキサックさんのあとがきを紹介する。

「この物語の中のできごとは、テネシー州ナッシュビルで育ったわたしの子供時代にほんとうにあったことです。
 ナッシュビルには、1950年代のたいていの南部の町と同じように、人種差別法がありました。ホテル、レストラン、教会、遊園地には、ジム・クロー法という法律によって人種を差別する看板が出され、アフリカ系アメリカ人を排除していました。さらに、バスがわれたり、公園にある水飲み場も別などという侮辱に耐えねばなりませんでした。しかし、1950年代の後半、ナッシュビル公共図書館運営委員会は、すべての図書館は人種に関係なく、だれでも使えることを議決しました。街の中心にある図書館は、ジム・クロー法の看板をとりはずし、黒人でも敬意をもって迎えられる場所となりました。
 たいていのアフリカ系アメリカ人の親たちは、子どもが人種差別を受けても対処できる年齢になるまでは、共同体の外に1人で出ていく危険を許さなかったものです。わたしの場合には、12歳になってやっと、1人で図書館に行かせてくれました。本書のパトリシアとおなじょうに、そのころのわたしはどんな状況でも乗り越えられるだけの愛と自尊心を身につけていました。図書館へ行く途中で、わたしはあらゆる形の人種偏見や差別に向かい合わなければなりませんでした。でも、図書館は、どんな苦労をしてでも訪れる価値のある、たいせつな場所でした。・・・・後略」

ボストンで見た公共図書館、ハーバード大学の図書館、ヴァッサー大学での図書館、どの図書館も市民に開放されていて、建物自体も魅力ある図書館。図書館の果たしてきた役割の素晴らしさに気付かされる。
それにしてもジム・クロー法は1964年まで存続していたと言う。奴隷解放宣言は1862年に出されている。100年以上も実質的な人種差別は続いていたのだ。
法律的な差別がなくなって60年ほどしかたっていない。アメリカの取り組みはまだまだ始まったばかりだし、それは全世界に共通なことであることに気づいた本だった。

これはアメリカのネイティブアメリカン本人が書いた本。

原題は The Absolutely True Daily of a   Part-Time Indian

訳者あとがきから紹介すると、
「これは、北米先住民のスポーケン族の保留地で生まれ育ち、生き抜いていくためにさまざまな冒険をせざるをえなかった少年の、ホントにホントで、ちょっぴりフィクションの自伝的物語です。(ちなみに後のホーンブック賞を受けたときのスピーチでは、78パーセントが事実だとアレクシーは言っています。)

訳者のさくまゆみこさんは、面白くて食事も忘れて一気に読んだ、というようなことも書いている。ホントかな?よくそういう本の宣伝があるが?と疑り深く読み始めた。ホントに一気に読んでしまった。電車のなか、喫茶店の待ち時間、ずっと読み続けてしまった。たしかにこの本はおもしろい。
ネイティブアメリカンの現実については、私は全く知らなかった。自分の世界を切り開くアーノルドの語りと行動は魅力的で、読む人が元気になってくる本だ。
少数民族の現実とそこで「がんばる」若者。闘う人間の姿と闘うことができるようになった現代のアメリカ、そのことが共感できるようになった現在の世界に、未来への希望を感じる本だった。

見のがした絵

左はメトロポリタン美術館にある「デラウェア川を渡るワシントン」(エマヌエル・ロッツェ作)。
見るのを忘れていた絵。

忘れていたと言っても、実際は、あまりにも見るものが多く、時間がないというなかで、日本に帰ってから、この絵はメトロポリタン美術館にあったのか、と気づいた絵。(絵はウィキペディアより)
ボストン美術館で見たワシントンの絵と、同じテーマの絵だ。

1776年12月25日、ワシントンが軍隊を率いてデラウェア川を渡る場面が、モチーフとなっている。このデラウェア川を渡ったり、トレントの戦いに勝利するきっかけをつくったワシントンの決断は有名なのだろう。

この戦いのことが頭にひっかかっていたのは、「マジック・ツリーハウス」の22巻、Revolulionary  War  on  Wednesday  (日本語版では11巻「戦場にひびく歌声」の中の第2話「託された手紙」)を読んでいたからだ。

左の写真がペーパーバック版の表紙。メトロポリタン美術館の絵を参考にしてこの表紙が書かれていることがよくわかる。主人公のアニーとジャックがワシントンのそばにいる兵士たちに置きかわっているが、全体の構図はそのままだ。
アメリカに行ったらこの絵が見ることができるかも、と本を読んでいる時は思っていたが、どこにあるのかまでは調べていなかった。もう少し事前に調べていれば、いつもそう思う。

ブログを書きながら、あれも見ておくべきだった、これも聞いておくべきだったと後悔するのも、旅の楽しみだろう。
来年は「ハイジ」と「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台スイス方面へ。
「ハイジ」の本を買って、勉強しょう。これもいつも思うこと、、、。
若草物語とあしながおじさんの旅もこのへんで中締め。