アメリカ東海岸 「若草物語」と「あしながおじさん」の旅 12

三日目 ハリエット・ビーチャー・ストウ

目的地はハートフォード。ボストンからバスで2時間半ほどの道のり。
「アンクル・トムの小屋」の作者、ハリエット・ビーチャー・ストウさんの家に向かう。

この女性が「アンクル・トムの小屋」の作者、ハリエット・ビーチャー・ストウさん。

「アンクル・トムの小屋」の作者はストー夫人、というのが常識的な答え方。しかしこの地に来てみて、どこにもMrs.Stowe という表示はない。すべて Harriet Beecher Stowe

である。あらためてゆっくり考えてみると、それはそうだろう。わざわざ夫の姓を全面に出して「ストウ夫人」と言う必要はない。「アンクル・トムの小屋」が書かれたころは、まだ女性の参政権も認められていない時代だった。女性の権利が十分に認められていなかったからかもしれない。日本でいうなら、藤原道綱母とか紫式部というようなものだろうか。
日本に帰ってきて、「アンクル・トムの小屋」の翻訳本さがしてみると、図書館で見つけた本には、著者名として「ストウ夫人」と書いてある本はなかった。

屋敷の案内は若い女性がしてくれた。ボランティアの人かもしれない。
「アンクル・トムの小屋」は、1851年〜52年にかけてハリエット・ビーチャー・ストウが、THE NATIONAL ERA という新聞に連載していたものが53年に本になって出版された。そして大ベストセラーになったという。ネットで調べてみると雑誌「ナショナル エラ(国民時代)」とか機関誌とかの説明があり、本のようなイメージだが、実際は写真のような新聞のような大きな印刷物。ベットに置くと下のような感じ。

部屋の壁一面に貼ってあるのは、「アンクル・トムの小屋」を絵にしたもの。日本流で言えば漫画版の「アンクル・トムの小屋」。舞台でも演じられ、各国で翻訳されたという。その当時の著作権についての考え方はわからないが、ハリエット・ビーチャー・ストウは、「アンクル・トムの小屋」がどのように使われても、広まるならかまわないという姿勢だったようだ。

世界各国で翻訳された「アンクル・トムの小屋」の本が展示されていた。日本語の本も展示されていた。

1862年、南北戦争中に、ハリエット・ビーチャー・ストウにあったリンカーン大統領が言った言葉として伝わっているのが上の言葉。
「あなたのような小柄な方が、この大きな戦争を引き起こしたのですね。」という意味か。「アンクル・トムの小屋」という作品が、南北戦争、奴隷解放につながっていったということだろう。写真の上部にはリンカーン大統領の顔がある。

沢山の蔵書の中に、ルイーザ・メイ・オルコットの書いた「Jo’s Boys 」(第四若草物語)があることを松本先生が発見。

ハリエット・ビーチャー・ストウは1811年〜1896年。
ルイーザ・メイ・オルコットは1832年〜1888年。どちらも南北戦争をはさんで活動をしている。そして「Jo’s Boys」 は1886年出版だから、ハリエット・ビーチャー・ストウは、若草物語やこの作品を読んでいたに違いない。

これはヨーロッパに行った時に、奴隷反対の署名がこれほど集まった、というもの。しかも全て女性からの署名。女性に参政権がなかった時代だったのだ。

派手な装飾もない落ち着いた部屋。ハリエット・ビーチャー・ストウの人柄が伝わってくるかのよう。

ここは台所。現代のシステムキッチンの基礎を作ったのが、ハリエット・ビーチャー・ストウとその姉によるものだそうだ。家庭料理は使用人や奴隷に任せず、自分たちでつくる、そして作りやすい台所、という考え方のようだ。奴隷解放の視点が読み取れそう。

ここは「ハリエット・ビーチャー・ストウ ビジターセンター」。「アンクル・トムの小屋」関わる展示や書籍が販売されていた。

このビジターセンターで『アンクル・トムの小屋」の英語版の本を買う。

先にハリエット・ビーチャー・ストウは、ルイーザ・メイ・オルコットの『若草物語」を読んでいたと推定されると書いたが、その逆のことがわかっている。

「若草物語」に「アンクル・トムの小屋」のことが出てくるのである。このことは次のブログに書く予定。

 

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です