アメリカ東海岸 「若草物語」と「あしながおじさん」の旅 8

二日目 ボストン市内観光その7       

オーチャードハウスと若草物語

上の写真は絵葉書から(写真撮影が禁止されているので)。
柱に付けられた白い半円のテーブル。オルコットのお父さんのブロンソンが作ってくれたもの。ここで、オルコットは「若草物語」を執筆したという。案内してくれたガイドさんの説明では、家族の生活を支えるために作品を書きつづけ、時間を短縮するために、右手だけでなく左手もつかって書き続けたそうだ。

上の写真は岩波少年文庫の「若草物語」。2013年の発行だから新しい翻訳。
この本のカバーにルイザ・メイ・オルコットについての解説がある。

「アメリカ、ペンシルベニア州に生まれ、「文学の街」として知られるマサチューセッツ州のコンコードで育つ。父は先進的な幼児教育をしたり、「理想郷」の建設を志したりした教育者・思想家。ルイザは、苦しい家計を助けるために、10代から教師などをして働き、そのかたわら小説や脚本を書いた。1854年、「花物語」が出版され、小説家としてデビュー。1868年に出版した自伝的な「若草物語」は、たちまち大評判になり、以後、児童文学の古典として今も、世界中で読み継がれている。」

「若草物語」の原題は「LITTLE WOMEN」。
これは姉妹のお父さんが「幼くても、ひとりの人間として、自分に責任を持って生きるように」と言う願いから、娘達に目標として与えた言葉からきている、ということはよく知られている。
では日本語訳の「若草物語」はどこからきたのだろうか。

岩波少年文庫の「若草物語」の訳者あとがきで、海都洋子さんは次のように言っている。

「1906年、原作が書かれてから38年目に、「アルカット著、北田秋圃抄訳・画」として、「小婦人(しょうふじん)」という署名で、日本に初めて紹介された・・・それから100年以上、日本だけでも、この物語は何十回も訳し直され読み続けられてきました。書名も「四少女」「四人の姉妹」などいくつかあります。いちばん有名な「若草物語」になったのは、
1933年にアメリカで映画化されて翌年日本で公開される際につけられたタイトルが、あまりにもぴったりだったので、以後、この「若草物語」が多く使われるようになったのだと言われています。」(白黒写真がその映画の一場面。インターネットより引用している)

このツアーの目的の一つ、「あしながおじさん」とどこでつながっているのだろう?

松本先生の名古屋での講座での様子を紹介した時にもふれたが、「あしながおじさん」の主人公のジュディは熱心に「若草物語」を読んでいるのである。岩波少年文庫の「あしながおじさん」から、その部分を抜き出してみると、

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・・・・・あたしは、「マザーグース」も、「ディヴィド・カパフィールド」も、「アイヴァンホー」も、「シンデレラ」も、「青ひげ」も、「ロビンソン・クルーソー」も、「ジェイン・エア」も、「不思議の国のアリス」も、ラドヤード・キプリングの作品すら一字も読んだことがなかったんです。・・・・・・・略・・・・・ 
 でも今、あたしはその全部を知っていますし、そのほかのことだってたくさん知っています。それでも、みんなに追いつくには、まだまだ時間が必要なのはおわかりでしょう。・・・・略・・・読んで、読んで読みまくるんです。一冊じゃたりません。いっぺんに四冊読んでいます。今読んでいるのはテニソンの詩集と「虚栄の市」とキプリングの「高原の平和」と、それから、どうか笑わないでくださいね。「若草物語」です。こないだ、この大学で「若草物語」を読まずに大きくなった女の子は、あたしだけだということを発見しました。だれにもいっていません。(そんなことがばれたら、変わり者のレッテルを貼られてしまうこと、まちがいなし。)あたしはこっそり出かけて、先月のお小遣いで、その本を1ドル12セントで買ってきました。これからは、誰かがライムのピクルスの話(若草物語に出てくる話)をしても、あたしはすぐになんのことかわかります。・・・・・

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「あしながおじさん」が出版されたのが1912年。今から約100年前。100年前の女子大生が読む本がどんなものかよくわかる。そのなかで、「若草物語」は読んでいて当たり前ということも、よくわかる。そして「あしながおじさん」の作者、ジーン・ウェブスターが「若草物語」を読んでいたことも類推される。当時の必読の本だったのだ。

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では「赤毛のアン」と「若草物語」の関係は?

「赤毛のアン」は1908年の出版。
左がその初版本の復刻版。カナダで買ってきたもの。
「赤毛のアン」が出版された時、カナダ、アメリカ、イギリス、オーストラリアの新聞雑誌に60をこえる書評が載ったそうだ。そのなかでもロンドンの政治・文芸の論評誌「ザ・スペクテイター」の「赤毛のアンはオルコットの直系の子孫」という書評に大いに喜んだと言われている。
「赤毛のアン」の作者モンゴメリーも少女時代にオルコットの書いた「若草物語」を愛読していたことが、モンゴメリーの日記からわかるそうだ。

それほど「若草物語」の影響は大きいのだろう。

左の写真は売店で買った冊子「オーチャードハウス 『若草物語』の家ー『若草物語』とオルコット家の人々」からとったもの。
ルイザ・メイ・オルコットの執筆しているところ。
一番最初の絵葉書にあった半円のテーブルはまだない。書き物机で原稿を書いている。

ルイザは1888年3月1日に病床の父親を見舞いに行っている。父親は3月4日に亡くなり、ルイザはその2日後に、父親の後を追うように亡くなっている。
彼女は南北戦争中に病院で看護師として働いていた。その時に水銀中毒になり、その後もその後遺症で健康状態は悪かったと言う。満55才でこの世を去っている。

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「若草物語」のオーチャードハウスの見学の後、私たちはソローに関係する場所を訪れるために移動する。

 

 

 

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