別府駅近くの一等水準点

水準点めぐり 19

別府駅近くに一等水準点のマークを見つけた。 地図を見ると、どうも学校のようだ。 学校だとすると、大分駅のように地図にあっても実際には見つからない、という可能性は低い。 さっそく行って見ることにした。

門柱には「別府市総合教育センター」という看板がついている。

入り口を入ってすぐに「二宮金次郎像」があった。 やっぱりここは学校だったようだ。
地図を見ると運動場の端の方、塀に近いところのようだ。
妻が運動場を横切っている年配の人にたずねると、「三角点ですか? マニアですね。この辺にありましたよ」と案内してくれた。

何かの倉庫近くにあったのが「一等水準点」だった。

ここは予想通り小学校で、子どもの人数が減少してきたので、統合され、今は教育センターになっているそうだ。
三角点アプリでは「四等三角点」がこの学校にあると表示されるので、そのことを聞くと一緒にさがしてくださった。

アプリ上で三角点が表示されているのが、実際は学校の校舎と隣接する住宅のあいだ付近。
住宅まで一緒にさがしてくださったが、個人の住宅となると中まで入って調べることはできない。
左の写真の家と家の隙間から見えるのが、学校のグラウンドの金網。
アプリの地図は少し古いのかもしれない。住宅の開発が進むと、大分駅周辺の三角点のように、地図にはあっても実際には見つからないということがおきる。

「この近くの〇〇学校にも、三角点だか水準点がありますよ」と教えてくれたが、残念ながら時間がない。

おやすみなのに出勤ですか?と聞く。何か催し物が行われているようで、どうも所長さんらしい。 
わざわざありがとうございます、とお礼を言って別府タワーに向かう。

大阪に帰ってから国土地理院のホームページを調べてみると、この水準点の写真が登録されていた。それが上の二枚の写真。
熊本地震の後の地面の変化を調べていたのだ。
こんなふうにして、水準点が利用されていることがよくわかるという、貴重な写真だ。学校の中にあるからこそ、大事にされているという例だと思う。

 

 

 

大分駅付近の三角点

三角点を探る旅32

大分駅前に四等三角点があると、国土地理院の地図にのっていた。

JRの大分駅から歩いて数分の、高架付近にあるようだ。
別府への移動の時に、三角点アプリで見つけたので余り時間がない。
急いでその場所を探す。私に与えられた時間は30分少々。

この付近にあるのだが、見つからない。

道路に何か赤い表示が埋め込まれているが、国土地理院という表示はなかった。
道路そばに、かなりのスペースが空いているので、ここに家やビルがあったのかもしれない。建物に手をいれる時に、三角点や標準点が移動されたり、知らぬうちに撤去されていることも多い。今回はその例かもしれない。残念。

大分駅前の広場には、大友宗麟とフランシスコ・ザビエルの像があった。
私は知らなかったが、大分市は「南蛮文化発祥の地」なのだ。
駅前の表示版に次のような説明があった。

「私たちのまち大分市は、戦国時代の終わりごろ日本を代表する国際色豊かな貿易都市として繁栄しました。九州の雄「大友宗麟公」は、聖フランシスコ・ザビエル神父を豊後府内に招き、海外との貿易を積極的に進めました。府内のまちは海外の品々が溢れ、異国の人々が生き交い、西洋の医学や天文学、音楽、演劇をはじめとする南蛮文化がいち早く花開きました。・・・・後略・・・・」

ここのフランシスコ・ザビエル像は、兵庫県立美術館に保存されているザビエルの肖像画より、ポルトガルで見たフランシスコ・ザビエルに似た像だった。

大分といえば「とり天」。ホテルや駅には「とり天ガイド」が置かれていたのにびっくり。 なぜ大分にニワトリなんだろう。九州でも日の出が早いので、その象徴としてニワトリとか、ニワトリの唐揚げが日本一だからとか、諸説色々あるらしい。
駅前のこのニワトリ。作者は「せんとくん」の籔内佐斗司(やぶうちさとし)さんということだ。

さて「大分駅」を見ていて「どうしてこの漢字で<おおいた>とよむのだろう?と考えてしまった。私の知識では<分>が<いた>と読めるはずがない。
大阪に帰って調べてみると、大分県立図書館のホームページに下のような説明があった。

Q.「大分県」の県名の由来を知りたい。

大分県のホームページには、『大分ガイド[O-BOOK]』からの引用として次のように紹介掲載されています。

・・・「豊後国風土記」は、”おおいた”について景行天皇に由来を求めています。天皇がここに来たとき「広大なる哉、この郡は。よろしく碩田国(おおきた)と名づくべし」とし、これがのちに”大分”と書かれるようになったといわれます。 しかし、実際の大分平野は広大とは言いがたく、むしろ地形は狭く複雑であり、「多き田」→「大分」との見解が最近の定説です。これが”とよのくに””おおいた”の由来です。・・・

県名の由来は意外に難解です。

『大分県史[近代篇Ⅰ]』によれば、明治4年廃藩置県時、「県の中心部に位置した大分郡からとったもの」となっています。その「大分郡」は、『豊後風土記』によれば、8世紀前半古代律令制度成立過程で、地方行政単位として、国・郡・里が整備されていく時、存在していたことがわかっています。では「大分」をオオイタとよむようになったのはいつか、また、なぜそう訓読するのか、その意味は、となると諸説あるのです。

これまで『日本書紀』・『豊後風土記』史料の「景行天皇九州巡幸説話」が定説との観がありましたが、『大分歴史事典』(後藤宗俊氏解説)によれば、事実には程遠く、確かな文献に拠る限り、「大分」の方が古く、「碩田」説話は「大分」地名の意味付けに後から作られた説話というべき、と考証しています。であれば、「大分」の字義の解釈が問題となります。半田康夫氏は、『大分県の風土と沿革』で、「分」は「段」と共に「キダ」と訓まれていたとしています。渡辺澄夫氏も『大分市史』昭和30年刊で、「キダ」は「段」で、きれめ・きざみ・だんの意、「分」はわかち・わかれの意で、分離の意味において両者はあい通ずる故、「オオキダ」は大きく(大いに)きざみ分けられた所と解される、と述べています。地形が錯綜している事から起こったのではないかというのです。「大分」の字義解釈が諸説ある中で、この説が現在比較的有力です。

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「おおいた」という音が先にあり、どんな漢字を当ててきたのか、それが地名の由来なのだろう。「分」と「段」、ともに「ギダ」と読んだことから、大段→大分となったということらしい。確かに県名、地名は難しい。

難しいことはさておいて、大分名物の話題。

大分に来たからには、本場の「とり天」を食べてみたかった。最近大阪でも、大分のとり天、という名前のお店が難波や天王寺で見る。

やっぱり名物はその土地で食べなきゃと思い、大分駅ビルにあるフードコートでビールと本場とり天で至福のときを楽しむ。
あれ?「ぼてぢゅう」の文字が。「ぼてぢゅう」といえば大阪のお好み焼き。大阪と大分のコラボレーションでしょうか。どちらも商魂たくましいと思う。

さて、肝心の三角点。大阪に帰ったから地図をよく見ると、大分城に三等三角点のマークがあった。ああもう少し丁寧に調べていたら、時間があったら、と思うことしばし。三角点や水準点探しはこんな結果に終わることが多い。ああ残念…。

 

 

 

田川市石炭・歴史博物館

ここは福岡県田川市大字伊田にある「田川市石炭・歴史博物館」。
1年以上の期間をかけてリニューアルされて、この4月に再オープンとなったそうだ。私はリニューアル前の記念館にきたことがある。その時は今見るような立派な建物や公園ではなかった。

実はここに来るまでは、「来たことがあると思う」という感じだった。しかし櫓(やぐら)と2本の巨大煙突を見て、やっぱりここだったんだ、と確信できた。

左の写真は、「旧三井田川鉱業所伊田竪坑櫓(きゅうみつい たがわこうぎょうしょ いだ たてこうやぐら)とよばれているもの。
この炭田は深さ300メートル以上あったそうだ。そこまで物や人を運ぶ竪坑(たてこう)につくられた巻き上げ機とそのための櫓(やぐら)がこれ。高さ28メートル以上ある。イギリス製で明治42年(1909年)のものだそうだ。

横にある二本の巨大な煙突は、高さ45.45メートル。竪坑の動力用の蒸気機関を動かすためのボイラー室に付属する排煙用の煙突として作られた。
櫓と煙突は、平成19年(1997年)に国登録有形文化財として登録されたもの。

地下300メートルといえば、通天閣三つ分地面の下にあるとうことだ。そんな炭鉱での労働は大変厳しいものだった。

ユネスコ世界記憶遺産 山本作兵衛コレクション

この田川市石炭・歴史博物館には、ユネスコ世界記憶遺産が収められている。 それが「山本作兵衛コレクション」だ。
「世界記憶遺産(世界の記録)」とは、世界において歴史的に重要なドキュメント遺産(documentary heritage)の保護と活用、および振興を目的に1992年(平成4年)に開始されたユネスコの主催事業。おもな登録例として、

◯フランスの「人間と市民の権利宣言」の原文
◯アンネ・フランクの日記(オランダ)
◯ベートーベンの交響曲第9番ニ短調作品
◯御堂関白日記
などがある。

「山本作兵衛コレクション」を代表するのが、炭鉱記録画。
明治中期から昭和中期までの筑豊における炭鉱内外の労働や、取り巻く生活、文化、社会情勢などが描かれており、当時の炭鉱社会を知る貴重なものである。

上の3枚はここで手に入れた絵葉書から。当時の様子がよくわかる。今のような照明のない炭鉱の世界は、真っ暗だったのだろう。想像するだけでも危険なことがわかる。NHKの朝ドラ「花子とアン」「あさが来た」で、九州筑豊炭田が出てくるが、実際の炭鉱はテレビで見るよりも、もっと危険で、厳しく、汗まみれだったのだろうなあと思う。

当時の住宅が再現されている。昭和10年代には5000戸を越える炭鉱住宅があり、最盛期には約2万1千人余りの人が生活していたと言う。

映画「幸福の黄色いハンカチ」で登場する北海道夕張炭田を連想する。
筑豊炭田が舞台になる映画は「青春の門」だ。大阪に帰ってきてからツタヤでさがしたが、どの巻も常設されていなかった。

左はここで買ったまんが、「炭都 田川の記憶」。私にはちょうどよい読み物だった。
ここで育つ子どもたちに、炭鉱の歴史や文化を知らせ、日本の近代化において、田川を含む筑豊炭田が担った役割を再発見してもらおう、歴史や価値に誇りを持ってもらおうというねらいで、作られたようだ。
たいへん分かりやすかった。
「2015年8月 第1版 第2刷」という奥付があったので、新しい本のようだ。
ここ田川に住む子どもたちがこの本で、自分たちの地域の歴史を学んでいるのかもしれない。

上がこの本の表表紙の下部を拡大したもの。
裏表紙にはかつてのこの町の写真があった。ほぼ同じ場所だ。

ここは「炭坑節発祥の地」としても知られている。 今も残る巨大な2本の煙突が、この歌の煙突だとも言われている。

宿泊地までのった車から見ると、畑は麦畑だった。
炭鉱は黒いダイヤともてはやされた。そこには今は黄金の麦の穂が一面に広がっていた。