宣教師のDNA

岩波書店の月刊の書籍案内誌「図書」2月号に大変面白い記事が載っていた。
著者は篠田謙一さん。国立科学博物館人類研究部長で、専門は分子人類学の博士。

東京都文京区小日向1丁目23番地のマンション建築現場で、3体の人骨が発見された。ここはかつて切支丹屋敷だったそうで、3体の中に宣教師がいたのではないかと調査された。その記録である。
少し長くなるが引用してみよう。(小見出しは私が付けたもので、本文にはない)

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遠藤周作の小説「沈黙」のモデル

「切支丹屋敷、別名山屋敷は、もともとは、キリシタン弾圧の一手段として、領民の宗旨を踏絵などによって検査する、宗門改役の井上政重の下屋敷だった。島原の乱の5年後の1643年、ポルトガル人の宣教師ペトロ・マルクエズら10人が筑前に上陸し、捕らえられるという事件が起こる。彼らは、江戸送りとなり伝馬町の牢に入れられたが、1646年にこの井上の屋敷に牢や番所などを建てて収容することになった。これが切支丹屋敷の興りである。
 マルクエズらは想像を絶する拷問を受け、キリスト教の信仰を棄て、この屋敷で余生を送ることになった。その中の一人、日本名岡本三右衛門を名乗って生きたイエスズ会宣教師ジョゼッペ・キアラは、遠藤周作の小説「沈黙」の中のセバスチャン・ロゴリゴのモデルとしても有名だ。
 彼らは、少なくとも表面上は仏教に帰依することになったので、死後、小石川の無量院に埋葬されたことが記録に残っている。そしてこの一行の最後の一人が1701年になくなって、切支丹屋敷に収容される人物は途絶えることになった。

侵入したシドッチ

 相次ぐ宣教師の棄教の報がバチカンに伝わって、17世紀の中頃には、ローマ教皇庁は日本への宣教師の派遣を諦めることになった。それ以後、日本に潜入しようとする宣教師はなく、18世紀初頭にはキリスト教の存在も忘れ去られ、過酷な弾圧の痕跡もない時代を迎えていた。そのような状況の中で、日本への侵入を果たしたのがシドッチだった。
 シドッチは1668年、イタリア・シチリア島のパレルモで生まれた。すでにローマ教皇庁が日本への布教を禁止していた時代である。しかし、カトリックの司祭として活躍しているうちに日本における宣教師や現地の信徒の殉教を知り、渡航を決意することになる。教皇クレメンス11世に願い出て宣教師となり、マニラで4年間奉仕した後、1708年8月、鎖国下の日本へ出発した。50日の航海の末、屋久島に到着した彼は髷を結い、武士の身なりに帯刀して上陸したという。しかし、彼が最初に出会った島の百姓藤兵衛は、その異形と言葉の通じないシドッチに恐れをなし、すぐさま役人に届け出ることになった。

新井白石の尋問を受けるシドッチ

こうして捕縛されたシドッチは、その後、長崎に送られ、さらに1709年には江戸に護送される。切支丹屋敷に収容されることになる。そこで時の幕政の実力者だった新井白石から直接、尋問を受けることになったが、この出来事がその後の日本の科学の歴史に大きな影響を与えることになった。
 白石はこの尋問を通して、シドッチの人格と学識に感銘を受け、双方が敬意を持って接したと言われている。彼はシドッチへの4回にわたる尋問をもとに有名な2冊の本、『西洋紀聞』と『采覧異言(さいらんいげん)』を著した。前者は上・中・下の3巻からなり、上巻はシドッチ訊問までのいきさつと取り調べの状況を記している。われわれは、シドッチが捕らえられた経緯や、取り調べでの席でどのような言葉が交わされたのかを、この記述から知ることができる。
 白石はシドッチとの対話から、キリスト教自体が、それまで考えられていたような日本への侵略の意図をもってものではないと理解したという。そのことが、幕府の蘭学の容認へとつながり、漢訳蘭書の輸入禁止が緩和され、その後の西洋学問の受容へとつながっていく。シドッチと白石の邂逅は、江戸時代の日本における西洋科学の発展の端緒を開いた出来事だった。

監禁されて病死したシドッチ

シドッチは、切支丹屋敷の幽閉されたものの、拷問を受けることもなく過ごすことになったという。しかし、4年後の1713年に、彼の世話をしていた「長助」と「はる」という夫婦がシドッチにより洗礼を受けたと告白したために、3名とも屋敷内の地下牢に監禁されることになった。シドッチはその10ヶ月後の1714年、旧暦の10月21日に47歳で衰弱死したといわれている。来日6年を過ぎた頃のことだった。なお、長助はシドッチに先立って死亡したことがわかっているが、はるについてはいつ死んだのか記録がない。この両名の来歴は不明だが、彼らは切支丹の親をもち、親が処刑されたため、キアラが存命の頃から切支丹屋敷ですごしていたとされている。

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というような歴史的な背景があり、
その切支丹屋敷で見つかった3体の人骨が、シドッチ・長助・はるの3人の骨ではないか? という調査なのである。

まるで推理小説を読むような展開だ。

3体の人骨のミトコンドリアDNAを調べることによって特定する手がかりを探ろうとした。
現在ではDNAを調べることによって、現代人のどの地域に住む人のタイプと一致するかを調べることによって、その人物の出自を類推することができるというから驚きだ。

そしてその結果、3体のうち1体が、ヨーロッパ人に特有のタイプを持つことがわかった。さらに現代ではDNAの情報から、髪の毛の色など体に関する特徴を知ることができる。その技術を利用して復顔したのが上の写真。日本人ではなく、ヨーロッパ人であることがわかる。この人物がシドッチだったのだ。なんとすごい技術だろうか。私はびっくりしてしまった。
現代の分子人類学は、過去の人間の姿かたちをこれほどまで精巧に再現できるのだ。

私はもう少し知りたかったので、篠田謙一さんの本を読むことにした。

人類の発生と進化の歴史は化石研究から始まった。そしてそれが現代ではDNAの分析によって解明が進んでいるという。

そもそも古い化石にDNAが残っている事が不思議だし、それを分析していく技術があることも私は知らなかった。

私には専門的な説明はできないが、分かった範囲で書いてみると、たとえば、
①人とチンパンジーは異なったDNAをもっている。
②もともとは同じ祖先から分かれたのだから、その時は同じDNAであったはずである。
③違うDNAになったのは、突然変異によって親と異なるDNAになったからだ。

④異なる生物のDNA配列を比べて、共通の祖先が持っていたDNA配列を推定すると、祖先からどのように変化してきたのかを知ることができる。
⑤たくさんの生物のDNAを調べ、比較することによってそれぞれの種の分岐の様子を知ることができる。
⑥この変化の道順を系統図といい、DNA配列の違いは進化を物語っている。

このような考え方で、人類の発生と進化、地球全体への拡散の時期を知ることができるという。すごいことだ。

この研究はミトコンドリアにあるDNAからはじまり、今は核にあるDNAの研究まで進んでいるという。上の図はこの本にあった細胞の模式図。高校か中学の生物で習った記憶があるが、ミトコンドリアのことはあまり関心がなかった。しかしそのミトコンドリアDNAが、人間の進化を歴史を調べることに大きな役目を果たしたそうだ。

左のグラフはこの本の説明にあった日本の歴史をExcelで表にしてみたもの。

日本にホモ・サピエンスが生活をし始めたのは約4万年前と言われている。
その時を1年の元日である1月1日としてみると、

◯縄文時代が始まったのは
8月15日。日本の人類の歴史全体から見ると、半分より新しい。◯弥生時代が始まったのは、なんと12月4日。そして
◯12月15日にはその弥生時代が終わり古墳時代など大和朝廷につながってくる。
◯武士の時代を代表して鎌倉時代が終わったのはクリスマスの25日。そして
◯明治維新が起きたのが大晦日の12月31日。
文字として残る日本の歴史は、日本列島の人類の歴史から見ると、それはほんの一月のことなのだ。

著者の篠田さんはいう。
「記録にない時代を類推することは、将来的にも難しいことでしょうが、少なくとも私たちは、日本列島に暮らす集団には、普段は認識しない非常に長い歴史があることを知っておくことは重要だと思います。私たちのDNAだけでなく

言語や思考、社会のあり方や自然との接し方なども、このような長い経験のなかから獲得されてきたものであるはずです。
 さらに、現代日本人の成り立ちを考えるときに、今の私たちが終着点であると錯覚してしまうという問題もあります。これまでを考えるあまり、これからが見えなくなってしまうのです。当然ながら、私たちも歴史の一地点にいるのであり、日本列島にはこれからも人の営みが続きます。現在はゴールではなく、歴史の1ページと位置づけられるもので、過去を振り返るのは、未来を考えるためだ、という視点を持ち続けることが重要だと思います。」

図を書いてみてわかったが、私が緑に色を付けた部分、縄文時代以前の文化が2万7千年以上続いている。この時の日本列島に住んでいた人たちのことはほとんどわかっていない。

さらに興味深かったのは、日本人は大きくいえば三方向からやって来た人々によって形成されてきたことがDNA解析で確認されたということだ。
日本単一民族説はDNAによって否定されたのだ。
このことについて著者はいう。

「日本では本来別物である民族と人種の概念が混同して用いられていますが、この誤用の根底には、第二次世界大戦前に主張された『日本民族は長い年月の間、人種的な統合が進んで、日本人種が形成された』というロジックがあります。そのため日本人は、日本民族であると同時に、日本人種であるという考え方が一般に流布するようになりました。それが暗黙の了解として現在でも多くの日本人に共有されていることが、今日まで人種と民族が混同されて用いられている要因の一つになっています。さらにそれが『日本人は単一民族である』という認識に結びついているのです。そこに人種があたかも科学的に正確な定義ができる実態を持った用語であるかのような思い込みが重なっているために、この言葉を用いた議論は不毛なものになりがちです。
・・・(略)・・・
古人骨のDNAが分析できるようになったことで、この章で見たように同一地域で集団の遺伝的な構成がどのように変化したのかも追求することができるようになっています。しかし、そこで明らかにされるのは地域に生きた集団の歴史であって、民族の歴史ではないことに注意する必要があります。時代とともに集団の遺伝的な特徴は変化するので、文化や言語を共有する人々の遺伝子の組成も変わっていきます。特定の民族が共有しているのは、その文化であって、遺伝子ではないことを認識していないと、おかしな結論にいたることになります。」

科学を知り、学び、正しく活用できるということは、こういう議論の上にあることだと思った。宣教師のDNAからここまで考えることができたいい本だった。

 

 

カカオとコーヒー展

鶴見緑地にある「咲くやこの花館」で、『カカオとコーヒー展」があったので行ってきた。

私は何年か前から家でコーヒーの苗を鉢に植えて育てているが、うまくいかない。コーヒーについてもう少し詳しく知りたかったこともあったからだ。

コーヒーの木は人の背丈から数十センチものまでいくつかあった。 コーヒー生産地ではコーヒーの木の背丈はどれほどなのだろうか。調べてみると、次のようなことがわかった。

「コーヒーになる原料は、日本の学名「コーヒーノキ(coffiea)」になる果実になる種子です。コーヒーの木はアカネ科(クチナシもアカネ科です)の常緑樹で6〜8メートルまで成長します。エチオピア(アフリカでの生産量は現在1位)で、アフリカやマダガスカル島、マスカリン諸島に自生し、交配などの改良で100種類(飲用にされているのは60種類ほど)以上が存在します。
 コーヒーは種をまいて3年目くらいから深緑の二枚の葉の間に白色の花を咲かせます(ジャスミンのような甘い芳香です)。そこに緑色の小さな実(コーヒーの生豆、グリーンコーヒーです)がなり、開花後6から8ヶ月で徐々に大きく成長し、赤色になります(黄色く熟するものも一部あります)。」(問題形式で学べるコーヒー額の基礎 全国大学連合コーヒー学特別公開講座編 旭屋出版より)

6〜8メートル、そんなに大きくなるのか。

上の写真はハワイコナ地区のコーヒー園。海岸まで広がる広いコーヒー園だ。

左はエチオピア高原に、今も自生しているコーヒーノキの原生林。

こらの写真は「図説コーヒー」(UCCコーヒー博物館著 河出書房新社発行)から引用したもの。どちらも私のイメージを補強するのに役立った写真だった。

最初にコーヒーを飲んだ日本人はだれだろう。
パネルに説明があった。

「はっきりとわかりませんが、17世紀後半(江戸時代前期)に長崎出島に出入りしていた通詞(今の通訳)か、遊女の誰かであったろうと言われています。その頃は一握りの人しかコーヒーを味わえませんでした。
同じ時代、長崎に赴任していた大田蜀山人(おおたしょくさんじん)のコーヒー評は、「焦げ臭くて味わうに堪えず」。当時の日本人には苦くて飲めなかったようです。
出島に滞在した学者のひとり、シーボルトはコーヒーを薬用として紹介しており、飲用として知られるのは日本の鎖国が解かれてからでした。」

なるほど、鎖国の時代だったらオランダかポルトガルから入ってきたのだろう。
同じパネルにココアのことが書いてあった。

「最初にチョコレートを食べた日本人。
日本で初めてチョコレートを口にしたのは、17世紀伊達政宗の命により、ヨーロッパへ渡った支倉常長(はせくらつねなが)を代表とする遣欧使節団一行か? と言われています。
日本にチョコレートがもたらされたのは、江戸時代。長崎の遊女が「しょこうらあと」と書かれたチヨコレートをオランダ人から貰い受けた記録が残っています。
1878年には米津風月堂(よねづふうげつどう)から日本最初のチョコレート「貯古齢糖(ちょこれいと)」が発売されます。その後アメリカで西洋菓子を学んだ森永太一郎(もりながたいちろう)が帰国、製造販売を始め、徐々に浸透していきました。」

上の写真がカカオノキ。見事な実がなっている。
説明のパネルにはこんなふうに書かれていた。

「カカオノキ アオイ科 南米アマゾン川、オリノコ川流域 カカオノキは、直径1cmの白い花を、幹に直接咲かせます。たくさんの花のうち、受粉・結実するのは少なく、200〜400個の花に対して1個の割合と言われています。  完熟した種子を発酵させると、苦味が消えて独特の香りを発散させるようになります。水洗いし乾燥させたカカオ豆を、火にあぶり、種皮を除いて粉末にします。これに砂糖・香料を混ぜて固めるとチョコレート、カカオ脂を除くとココアのできあがりです。」

手に触れたり、ゆかいなパネル展示など、小さな子どもたちでも楽しみながら学べるように工夫されていた。

館内を1時間ほどかけて解説してくれるツアーもあり、大人も咲くやこの花館にある植物に親しめるようになっていた。

この本はここで紹介されていた本。 収益金が「アフリカ理解の促進とアフリカの女性と子どものための教育支援に使います」ということなので購入した。「アフリカ理解プロジェクト」の製作。
コーヒーは日本では嗜好品だが、その生産地の苦労は私の想像をこえるようだ。この本にこんなことが書いてあった。

「・・・エチオピアのコーヒー年間生産量は約32万トン(2006/2007)で、このうちの約60%が日本や欧米に輸出されている。コーヒーはエチオピアの主な外貨獲得源であり、輸出額の35%(2005/2006)を占め、1000万人(国民の7人に1人)がコーヒー生産に関わっている。コーヒーの市場価格は、世界的に低く不安定であることに加え、平均的な生産コストを下回るまでになっているといわれる。またほかの生産国との価格競争や気候変動による不安定な収穫量など、アフリカのコーヒー産業を取り巻く状況は厳しい。
 エチオピアに限らず、世界のコーヒーの半分以上は数エーカーの農地しか持たない家族経営的な小規模農家により生産されている。そして生産農家の収入は、極めて低い。現金収入をコーヒーに頼っている家族は、価格が下がれば、子どもに学校をあきらめさせたり、食事や医療費を削ったりせざるを得なくなる。生産者がコーヒーから公正な収入を得られるようにすることが、とりもなおさずコーヒーを取り巻く自然環境を守り、私たちが長くコーヒーを楽しむことにつながっていく。・・・」

最近ブルーマウンテンのコーヒーを喫茶店やコーヒー豆の販売店で見なくなった。
コーヒーの疫病と異常気象が原因だそうだ。生産農家の苦労がますますふえているように思われる。

楽しみながら、コーヒーやカカオの現状、世界経済にまで視野を広げることのできる「カカオとコーヒー展」だった。

 

 

 

 

大阪環状線撮り歩き・寺田町駅

今回は環状線「寺田町駅」から「天王寺駅」までを歩いた。

寺田町駅は、最近古い駅名の表示板が発見されて有名になった駅だ。それは1932年(昭和7年)の駅開設当時の物ではないかと言われている。残念ながら現物を確認せずにフィールドワークに出発。

講師の先生の言うには「お寺が多いです。寺田町だからでしょうかねえ」。四天王寺周辺には200ほどの寺院があるそうだ。地図の丸印以外にもお寺があったが、そのなかの幾つかを紹介する。

上の写真は融通念仏宗の浄長寺。周りはビル。建立当時はどんな様子だったのだろう。近くの公園には、保育所の園児さんたちが遊んでいた。

ここは久保神社。

写真の丸い石のあるところは「伊勢神宮遥拝所」。
この丸い石の穴の向こうに伊勢神宮があるそうだ。丸い石の穴に向かってお参りをすると、伊勢神宮にお参りしたことになるそうだ。なるほどねえ。そういえば西国33ヶ所のお寺の砂を集めて、その砂を踏んでまわれば33ヶ所をお参りしたことになる、というお寺を見たことがあるが、信仰のためにいろんな工夫があるのだなあと思う。

神社の屋根についている千木(ちぎ)で男神か女神かがわかると言う。千木が地面に対して垂直になっているのが男神というので、五条宮は男神。
でもこれで全ての神社がそうなのかというと、そうではない。
伊勢神宮は内宮の千木は地面に対して平行(女神)だが外宮は垂直になっている。外宮の主祭神は豊受大神という女神なのに千木の形式は男神になっている。長い歴史の中で様々な考え方や当時の価値観が反映しているのかもしれない。

これは樹齢500年のイチョウの木。
立て札には「公孫樹」という漢字が書かれていた。これでイチョウと読むのだそうだ。

500年前というと、関ヶ原の合戦のころ。この後、四天王寺、茶臼山と足を伸ばしたが、豊臣軍と徳川軍が戦った頃にこのイチョウの木が若木としてあったのかと思うと、長い歴史を見てきたのだなあと思う。
30年ほど前にイチョウの木の回復手術が行われ、セメントで覆われた部分が痛々しいが、春には若葉が芽吹き、秋には紅葉がすばらしいそうだ。
ここは季節を変えて来てみたいことろだ。
五条宮のイチョウは、江戸時代末には河内から大阪へ来る時の目印になったほどの巨木だったそうだが、今はビルの影になっている。

ここは四天王寺。工事中だった。 角度を変えると、四天王寺の五重塔と、あべのハルカスのツーショットが撮れた。韓国からの観光客がバス3台。韓国はキリスト教が多いと聞くが、仏教への関心もあるのだろうか。

これは「熊野権現礼拝石」(くまのごんげんらいはいせき)。
平安・鎌倉時代には熊野詣り(くまのまいり)が盛んだったそうだ。
熊野詣りの前に、ここから熊野の方向へ礼拝し、熊野までの安全を祈願して、熊野詣りに出発したという。
久保神社で見た「伊勢神宮遥拝所」と同じように、信仰が深かったことが想像できる。

四天王寺には転法輪石、引導石、伊勢神宮遥拝石、熊野権現礼拝石、の四石があるそうだ。
時間がなかったので、熊野権現礼拝石以外の石は見ることができなかった。機会を見つけて来てみたい。

境内ひるがえる「波阿彌陀佛」の大きな旗。不思議なデザインなので付近を見回すと説明書きがあった。

「聖徳太子は百済より大工(番匠)の技術を持ち込み、大工たちの間でも大工技術の始祖であると崇め奉られております。その七堂伽藍を創設されるとき大地の産物の命を絶ってしまうので、金槌(かなづち)、鋸(のこぎり)、錐(きり)などに仏性を入れて番匠器(大工道具)で「南無阿弥陀佛」の名号を書かれ、大工の工事安全と無事建立を祈ったといわれております。実物は軸装で、宝物館に収蔵されており、工事作業の時に、この番匠器名号を旗に変えて作業中の安全祈願として掲揚しています」

なるほどねー。さすが聖徳太子。お寺を建立する時にも万物の命に心を配ったというのだから。
鋸、鉄木梃(かんなてこ)、墨指(すみさし)、のみ、釘貫(くぎぬき)、小刀、おの、鉋(かんな)、錐、犀槌(さいづち)、さしがね、鋏(はさみ)、槍鉋(やりがんな)、銑(せん)、鎌(かま)などがデザイン化されて「南無阿弥陀佛」の文字を作っている。日本仏法最初のお寺だけにいいものが残っている。

お骨仏のお寺で有名な一心寺。ディスプレイが改装された通天閣が見える。

大阪冬の陣では徳川家康の本陣となり、夏の陣では真田幸村の本陣となった茶臼山。 山頂は工事中で、周りの整備が進んでいた。

整備が進む茶臼山の朱塗りの橋を渡る和服の女性。おもわずだれもがカメラを構えてシャッターの音があちこちから。
最後の写真は慶沢園のポスター。なかなか洒落たコピーではありませんか。

今回は寺田町だけにお寺シリーズになってしまった。お寺以外にもスナップ写真を取ったので、次の機会でも紹介したい。