魂魄の塔(こんぱくのとう)
ここは糸満市。ひめゆりの塔の近くにある「魂魄の塔」。
そばにある石碑に刻まれていた説明。
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魂魄の塔
この地は今次大戦で一番の激戦地であり、日本軍も住民もおいつめられて逃げ場を失い、陸、海、空からの攻撃を受けて、敵弾にあたって倒れた屍が最も多い激戦地の跡である。 戦後、真和志村民が収容移住を許された所で村民及び地域住民の協力によって、道路、畑の中、周囲いたる所に散乱していた遺骨を集めて祀ったのがこの魂魄の塔である。 祭神三万五千余柱という、沖縄で一番多く祀った無名戦士の塔であったが、その後、昭和五十四年二月摩文仁の丘に国立沖縄戦没者墓苑が完成し、遺骨は同墓苑に分骨し安置してあります。
和魂(にぎたま)となりてしづもるおくつきの
み床の上をわたる潮風
建立年月日 昭和二十一年二月
財団法人 沖縄県遺族連合会
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資料を読んでいて気づいたことがある。沖縄の人だけではなくアメリカ人兵士もこの地で多数亡くなっていたのだ。真和志村の人たちは、日本人もアメリカ人も区別なく遺骨を収集したという。
魂魄と言う言葉は、二つの漢字から成っている。
「魂」は、精神を支える気、「魄」は肉体を支える気。道教に由来する言葉らしい。
人間は「魂」と「魄」という二つの気から成っているということなのだろう。
「魂魄の塔」、戦死した人たち、日本人もアメリカ人もともに集められた遺骨を収めるのにふさわしい言葉だと思う。
たくさんの千羽鶴が祀られている。 目に入ったのが「大阪府泉南郡岬町立岬中学校三年」。修学旅行でここに来たのだろうか。
ここは「沖縄菩提樹苑」。ブッダが悟りを開いた言う菩提樹の分け樹がここにはある。
インドから持ちだされたことは、正式には紀元前3世紀からはなかったというもの。2003年に贈呈されているそうだ。説明の石碑には「人種、国家、宗教の違いを超えて、第2次世界対戦で亡くなった総ての戦没者を慰霊するとともに、沖縄、長崎、広島で起きなような悲惨な戦争を二度と繰り返さないよう、恒久平和のメッセージを世界に発信し続けるため、この聖なる菩提樹が役立つことを祈念し、この地に植樹する」とある。
また、ダライ・ラマ法王14世の記念樹もこの近くにあった。
盛りを過ぎた月桃の花があった。ガジュマル、デイゴと沖縄ならではの木々がこの公園に植えられていた。
もらった資料によると、
1944年の10・10空襲で、那覇は灰燼に帰しました。その後、県民が受けた戦争の惨禍は、言語に絶するすさまじさでした。
海からは「鉄の暴風」と表現された1500隻近い艦船による猛烈な艦砲射撃、空からは1400機に及ぶ空母艦載機による銃撃と爆撃、陸では火炎放射戦車や毒ガスで殺戮の限りを尽くしました。・・・略・・・
1946年1月、家族も家も失い、飢えに苦しみ、病み衰えた村民が摩文仁野で見たものは、野ざらしのおびただしい死体でした。・・・村長を先頭に老若男女、特に真和志ハイスクールの少年少女たちは、米軍の監視の中、散乱していた遺骨を集めて合祀しました。
住民の発意で、軍民、敵味方の区別なく、遺骨1306柱を祀りました。掘り下げた地下に埋葬していた遺骨はやがて穴からあふれ出し、被せた土は盛り上がって小山になりました。(村長の息子さんの記録より)
この盛り上がって小山になったのが、一番最初の写真にある「魂魄の塔」である。
平和祈念公園で行われている「沖縄全戦没者追悼式」に向かう。
魂魄の塔や前回の地下の旧海軍司令部など初めて知りました。当方が沖縄に行ったのは16年ほど前です。室生の住人さん夫婦も同行でした。その時は平和祈念公園・首里城・ひめゆり平和祈念資料館などに訪れました。もう一カ所思い出すのは夜に喜納昌吉のライブハウスに行ったことです。本人の歌「花」を生で聞きました。2泊3日の駆け足ツアーでした。
紺碧の空さんのようにもう少し時間をかけて行くのがいいですね。
風見鶏さんへ
いつもありがとうございます。
沖縄は3度行っていますが、いくたびに町が大きく変化しています。
慰霊の日の沖縄は、感慨深いものでした。もう少し、見たことをブログに書くつもりです。
またご意見ください。