沖縄の6月 その4

6月23日の平和祈念公園 

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追悼式が終わった後の会場。ゆっくりと手を合わせる人があとをたたない。

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向かって左に内閣総理大臣の献花、右に沖縄県知事の献花があった。IMG_4954

当日の報道では、

追悼式には首相のほか衆参両院議長、ケネディ駐日米大使ら4700人が出席。犠牲者の冥福を祈り、正午の時報に合わせて1分間の黙とうをささげた。

71年前のこの日は、沖縄戦の組織的戦闘が終結したとされ、沖縄県では休日となっている。犠牲者の名を刻んだ同公園内の「平和の礎(いしじ)」には、今年新たに84人が追加され、刻銘者数は計24万1414人となった。

というような記事がネットにあった。

平和祈念公園1

平和祈念公園は広い。その中にある幾つかの施設を見学した。

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IMG_4966安倍首相が来るので、多くの警察官が沿道に整列している。 沖縄県警の白バイも止まっていた。安倍首相が退席するところが目の端にとまったが、黒い服の人たちの集団が動いていたのがわかった程度でどの人がだれとはわからなかった。 写真の灯台のような白い建物は、平和祈念堂。

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韓国人慰霊塔。石の小山は、韓国各地から集められた石を積み上げて出来ているという説明がかかれていた。

那覇市のホームページには次のような解説があった。

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平和祈念堂をバックにして建っている。石塚を中心に韓国の各地域から集められた石が並ぶ、塚の前の 円形広場にはさまよえる魂のために故国への方向を示す矢印がある。(注 慰霊碑の写真二枚目に矢印が見える)
朝鮮半島から強制的に連行されてきた人々はもっとも立場の弱かった。そのためもっとも危険にさらされ、かつ虐殺された人もいた。

【韓国人慰霊の塔碑文】
1941年太平洋戦争が勃発するや多くの韓国人青年達は日本の強制的徴募により大陸や南洋の各戦線に 配置された。この沖縄の地にも徴兵、徴用として動員された1万余名があらゆる艱難を強いられたあげく、あるいは戦死、あるいは虐殺されるなど惜しくも犠牲になった。祖国に帰り得ざる魂は、波高きこの地の虚空にさまよいながら雨になって降り風となって吹くだろう。
この孤独な霊魂を慰めるべく、われわれは全韓国民族の名においてこの塔を建て謹んで英霊の冥福を祈る。

願わくば安らかに眠られよ 1975年8月   韓国人慰霊塔建立委員会

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子どもの絵画の作品は、このあと訪れた平和記念資料館で行われていた作品展で優良賞だったもの。韓国の子どもも日本の子どももアメリカの子どもも一緒に手をつないでいる。
沖縄の子どもの夢と希望なのだろう。

 

 

 

沖縄の6月 その3

魂魄の塔(こんぱくのとう)

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ここは糸満市。ひめゆりの塔の近くにある「魂魄の塔」。
そばにある石碑に刻まれていた説明。

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                 魂魄の塔

この地は今次大戦で一番の激戦地であり、日本軍も住民もおいつめられて逃げ場を失い、陸、海、空からの攻撃を受けて、敵弾にあたって倒れた屍が最も多い激戦地の跡である。 戦後、真和志村民が収容移住を許された所で村民及び地域住民の協力によって、道路、畑の中、周囲いたる所に散乱していた遺骨を集めて祀ったのがこの魂魄の塔である。 祭神三万五千余柱という、沖縄で一番多く祀った無名戦士の塔であったが、その後、昭和五十四年二月摩文仁の丘に国立沖縄戦没者墓苑が完成し、遺骨は同墓苑に分骨し安置してあります。

        和魂(にぎたま)となりてしづもるおくつきの
         み床の上をわたる潮風

建立年月日 昭和二十一年二月

                     財団法人 沖縄県遺族連合会

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資料を読んでいて気づいたことがある。沖縄の人だけではなくアメリカ人兵士もこの地で多数亡くなっていたのだ。真和志村の人たちは、日本人もアメリカ人も区別なく遺骨を収集したという。

魂魄と言う言葉は、二つの漢字から成っている。
「魂」は、精神を支える気、「魄」は肉体を支える気。道教に由来する言葉らしい。
人間は「魂」と「魄」という二つの気から成っているということなのだろう。
「魂魄の塔」、戦死した人たち、日本人もアメリカ人もともに集められた遺骨を収めるのにふさわしい言葉だと思う。

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たくさんの千羽鶴が祀られている。 目に入ったのが「大阪府泉南郡岬町立岬中学校三年」。修学旅行でここに来たのだろうか。

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ここは「沖縄菩提樹苑」。ブッダが悟りを開いた言う菩提樹の分け樹がここにはある。
インドから持ちだされたことは、正式には紀元前3世紀からはなかったというもの。2003年に贈呈されているそうだ。説明の石碑には「人種、国家、宗教の違いを超えて、第2次世界対戦で亡くなった総ての戦没者を慰霊するとともに、沖縄、長崎、広島で起きなような悲惨な戦争を二度と繰り返さないよう、恒久平和のメッセージを世界に発信し続けるため、この聖なる菩提樹が役立つことを祈念し、この地に植樹する」とある。

また、ダライ・ラマ法王14世の記念樹もこの近くにあった。

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盛りを過ぎた月桃の花があった。ガジュマル、デイゴと沖縄ならではの木々がこの公園に植えられていた。

もらった資料によると、
 
1944年の10・10空襲で、那覇は灰燼に帰しました。その後、県民が受けた戦争の惨禍は、言語に絶するすさまじさでした。
海からは「鉄の暴風」と表現された1500隻近い艦船による猛烈な艦砲射撃、空からは1400機に及ぶ空母艦載機による銃撃と爆撃、陸では火炎放射戦車や毒ガスで殺戮の限りを尽くしました。・・・略・・・

1946年1月、家族も家も失い、飢えに苦しみ、病み衰えた村民が摩文仁野で見たものは、野ざらしのおびただしい死体でした。・・・村長を先頭に老若男女、特に真和志ハイスクールの少年少女たちは、米軍の監視の中、散乱していた遺骨を集めて合祀しました。
住民の発意で、軍民、敵味方の区別なく、遺骨1306柱を祀りました。掘り下げた地下に埋葬していた遺骨はやがて穴からあふれ出し、被せた土は盛り上がって小山になりました。(村長の息子さんの記録より)

この盛り上がって小山になったのが、一番最初の写真にある「魂魄の塔」である。

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平和祈念公園で行われている「沖縄全戦没者追悼式」に向かう。

 

 

 

沖縄の6月 その2

旧海軍司令部壕

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ここは旧海軍司令部壕。見学できるようになっている。

旧海軍司令部壕2

このツアーでもらった資料によると、
「地下35m、総延長450mに及ぶ巨大な地下壕である。・・・沖縄に配備された海軍兵力は約1万人、・・・実戦能力のあるものは少数で、小銃も3分の1程度しか装備しておらず、槍を持たされるものもいたという。・・・・6月4日には、那覇を制圧した米軍が小禄飛行場(電子基準点のあった付近か?)一帯に進行してきた。しかし抵抗する戦力はわずかしかなく、13日に大田司令官が壕内で自決、海軍部隊の組織的戦闘は終了した。大田司令官は自決の前に、沖縄県民への特別な配慮を求めた「沖縄県民斯く戦ヘリ。県民に対し、後世特別のご高配を賜らんことを」との電文を海軍次官発信している。」

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付近は公園のように整備されている。展望台に登って見える那覇市の風景。

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青い海と青い空。この海が米軍の上陸用舟艇でうまり、青い空には砲火と戦闘機が舞ったのだろう。しかし今は、旅客機の白い機体が輝いて見える時代になったのだ。

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この旧海軍司令部壕の上には、「海軍戦歿者慰霊之塔」がたっていた。
付近を掃除している、体脂肪10数%ぐらいのしまった体つきをした若い男性の姿がある。私は思わず「ボランティアですか?」と聞いてみた。
少し苦笑いのような顔をして「ええ、まあ、そういうようなものですが」と返事が。
「交代で掃除をされているのですか」と重ねて聞くと
「そうです。曜日を決めて」と返答がかえってきた。
この時はこの人達は一体誰なのかまったくわからなかった。
帽子に「TIDA」とかかれていたので、大阪に帰ってからしらべてみると、
海上自衛隊の第5航空隊のコールサインであることがわかった。ティーダとは沖縄の言葉で「太陽」という意味だそうだ。
海上自衛隊のいろんな部隊が、順に旧海軍司令部壕付近を清掃しているのだろうと思う。沖縄を守るために戦い、戦死あるいは負傷をした人たちのことを思ってのことだろう。とにかくこの公園はチリひとつ落ちていなかった。

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公園の頂上にはドーム状の建物があった。ここからエレベーターで旧海軍司令部壕の見学受付に行くことができる。沖縄戦の写真や熊本支援のポスター等が展示されていた。人の命と復興、支えあい、などという言葉が頭のなかをぐるぐると巡っていた。

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もらった資料によると、

「・・・海軍には、ヤリを武器とした斬りこみと、急増爆雷を抱いて戦車への体当たり戦法しか残されていなかった。壕周辺には、将兵や戦闘に巻き込まれて犠牲となった住民の死体が累々と横たわっていた。米軍は一つひとつの壕を火炎放射やガス弾でシラミつぶしに潰していった。」
とある。そして大田司令官をはじめ幕僚たちが集団自決をする。
「戦後、帰村した小禄地区の人々がすぐに手をつけたのが、遺骨収集であった。原っぱで草が生い茂っている場所には必ず遺骨があり、いたるところに白骨がごろごろしていたという」
と書かれている。

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この旧海軍司令部壕に展示されているものの多くは海軍関係の遺品と資料になっている。軍人中心の展示品という批判もある。 軟弱かもしれないが、私はそれはしかたがないだろうなあと思う。
大阪ではピース大阪の展示やリバティ大阪の展示に、行政から横槍が入る時代になったのだから、戦争の悲惨さの現実を当時の武器や遺品で知らせる意味はあるだろう。

入口にあった千羽鶴。
沖縄の平和教育の取り組の一環かもしれない。

戦争と軍隊と平和、切っても切れない関係が沖縄にはある。