ポルトガル紀行 17

ポルトガル5日目
     ベレンの塔・発見のモニュメント

ベレンの塔2

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見えているお城のような建物は、「ペレンの塔」。
「南蛮のみち2」に次のような文章がある。

「・・・・さらに河口ちかくまでゆくと、水中の岩礁に美しい大理石の塔が立っている。塔というより小城郭といったほうが正しい。 ベレンの塔とよばれ、16世紀のものである。日陰の面は海風に錆びて老いた貴婦人のように陰鬱な表情をしているが、日がさす面は、はじめて社交界に出た少女の頬のような血色をしていて、ういういしい。この塔に感ずるものは、つめたい力学ではなく人格であり、それも女性を思わせる。 塔が女性的であるところに、ポルトガル人のやさしさを感ずることができないだろうか。 ながい航海のすえ、母国の河口港に入ってくる船は、船体も痛み、ひとびとは疲れ、女性を恋い、さらに故国において母性を見出だすべく心が渇ききっている。かれらが夜、港外で塔の灯を見、朝、塔の姿を見たとき、生きてリスボンにたどりついたという思いが、体中を溶けさせるのにちがいない。そういう感情を、この塔の発注者も設計者も施工者も悲しいばかりに知っていた。
塔は、岩礁の上にある。
港内の岩礁はそのままでは危険である。港によっては標識をたて、夜は日を焚いたりするのだが、16世紀のポルトガル人はこの岩礁に塔をたて、帰ってくる船乗りたちのために、国家と女性を象徴する微笑を造形化させたのかと思わせる。
・・・・・・・略・・・・・・
言いわすれたが、ジェロニモス修道院は、ヴァスコ・ダ・ガマが持ち帰った富でもって建てられた。ペレンの塔はその工期中の建物で、見たところおなじ石材がつかわれているように思える。
眺めていると、テージョ川に佇み(たたずみ)つくす公女のようにも見えてくる。」

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もうこれ以上はないというぐらいの文章で、「ベレンの塔」への惚れ込みと思い入れが書かれている。
「ベレンの塔はテージョ川に佇む公女」という言葉がここから生まれた(と思う)。

ベレンの塔は1515年から1521年にかけて建設されている。
天正遣欧少年使節団は1584年8月にリスボンに着き、1586年4月にリスボンを出港している。ポルトガルに到着したとき、そして出発の時にこの「ベレンの塔」を見ているにちがいない。きっと感銘と感慨の時だったと思う。

私たちはここでポルトガル名物といわれている「焼き栗」を食した。
現地のガイドさんのおすすめ。日本の天津甘栗とはまたちがう、こちらのほうが栗の味そのものを楽しむという焼き栗だった。

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IMG_8925これが「発見のモニュメント」。わたしがこの旅行で、一番見たかった像。

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発見のモニュメントの前の広場にある世界地図。 ポルトガルがいつ、世界のどこに行ったかがかかれている。もちろん日本にも来ていることがわかる。

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ポルトガルから、南アメリカ大陸へ飛行機が飛んでいる。
それがさきほど「ベレンの塔」のそばで見たフロートのついた水上飛行機。左上の写真を見ると、ポルトガルと南アメリカは案外近いことがわかる。1922年、リスボンからリオデジャネイロまでの8383km、飛行時間62時間26分という記録が残っている。大航海時代には何ヶ月もかかったところを、3日もかからずに飛んでいるのだ。技術の進歩というか、時代の変化がこれでわかる。

モニュメントの東側にはエンリケ航海王子+16人の像、そこには私たちの知っている人物の像がいる。インド航路を発見したバスコ・ダ・ガマ、世界一周をしたマゼラン、そして日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルである。

発見のモニュメント1

発見のモニュメント2

西側にはエンリケ航海王子+15人の像。残念ながら私の知らない人たちだったが、数学者、天文学者、作家、画家、神学者など当時の有名な人物がいるらしい。

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このモニュメントは私がポルトガル行きを決めた写真の一つ。 なんともロマンチックでしかも巨大なモニュメントのように見えたので、是非自分の目で見たかった。 さて、この発見のモニュメントについても、「南蛮のみち2」のなかで書かれている。

「ジェロニモス修道院の前は広場になっていて、すでにのべたように一部を路面電車のレールがかすめている。そのむこうが、広大な河口であり、ゆたかに水が流れている。インドをめざすヴァスコ・ダ・ガマが、エンリケ航海王子の死後、1497年7月9日、河口のこの地点から四隻の船体をひきいて出て行った。
その場所に、巨大な船首と帆を象徴した形の「海洋発見記念碑」(注 発見のモニュメントのこと)が、水にむかって突き出している。
エンリケ航海王子の没(1460年)後、500年を記念して建てられたもので、石材は灰色がかった大理石である。船と帆は半抽象化されているが、モティーフは3本マストのカラヴェラ船の船型からとられたことはまちがいない。カラヴェラ船という、遠洋航海に耐える船を考案し、採用したのは、エンリケとその周辺のひとびとであった。

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ちなみに、エンリケは航海王子とのちによばれながら、海洋経験は若いころ二度ばかりアフリカに渡っただけのことで、みずから操船したことは一度もなかった。かれは海洋教育の設計者であり、航海策の立案者であり、推進者であった。かれの偉大さは、むしろ海に出なかった”航海者”であるというところにある。

しかし記念碑では船首に長身のエンリケ航海王子が立っている。例の修道士のような姿の大理石の彫像で、かれはカラヴェラ船の模型を右手にもち、右脚を踏み出して、遠くを望んでいるのである。その彫像は中世の教会が好んだ写実像である。丁寧な写実表現によって寓意を含ませるというカトリック美術の伝統が、現代彫刻家によって律儀に守られているのがおもしろい。さらに王子のあとに、おなじ手法による彫像がつづく。ヴァスコ・ダ・ガマもいれば、剣を杖にするものもいる。緯度測定器をもつ者、ペンをもつ者、聖書や旗をかざす者、さらにはうずくまって合掌している僧服の者もいた。みな名のある人物にちがいない。・・・・」

高さ52mの記念碑である。通天閣の約半分の高さだと思えばよい。

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エンリケ航海王子の前にあるテージョ川の川幅は広い。
写真にかすかに見えている橋が「4月25日橋」。長さ2277mの吊り橋。
1966年に開通し、最初は当時の独裁者の名前にちなんで「サラザール橋」とよばれていたが、1974年4月25日のカーネーション革命により、「4月25日橋」とよばれるようになった。

エンリケ航海王子はポルトガルの視点を海外に向けさせた先駆けの人。この人がいたから日本とポルトガルの関係ができあがったといってもいいだろう。
さて、いまエンリケ航海王子の目には何が写っているのだろう、何が見えているのだろう、と月並みなことを思ってしまう。
極東の国からヨーロッパの西の端、この地に来た甲斐があった。と思える塔と像だった。

 

 

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