ポルトガル紀行 15

ポルトガル5日目
      リスボン サン・ロッケ教会

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サン・ロッケ教会の原型となる礼拝堂は1506年から1515年にかけてつくられたと言われている。
1540年にイエスズ会の会員たちがポルトガルにやってきた。その中には、フランシスコ・ザビエルもいた。
イエスズ会はサン・ロッケ教会を所有し、1565年から1587年にかけて現在のような建物に改築した。1584年に天正遣欧使節団を受け入れ、彼らの宿舎として提供された。彼らは約一ヶ月間滞在したそうである。
私たちが見たサン・ロッケ教会を天正遣欧使節団の彼らも見ていたわけである。

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なんとも豪華な礼拝堂だ。 植民地だったブラジルから算出された金によってこれらの豪華な内装が出来上がったという。そうすると天正遣欧使節の少年たちが見た礼拝堂はこのように豪華になる前のものだと思われる。

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IMG_8861これがフランシスコ・ザビエルの像。 ここには、イエスズ会創設者のロヨラなどの著名な4人の聖人像が並ぶ。その中の一人がザビエル。この像は1625年から1628年にかけて造られたという。
私たちが教科書で見ているザビエルと少し雰囲気が違う。実は教科書のザビエルの像は日本人画家によって描かれたものといわれていて、現在は神戸市立博物館に保存されている。
4月9日(土)から5月29日(日)に、南蛮美術・古地図企画展「西洋との出会い」で、この重要文化財になっている「聖フランシスコ・ザヴィエル像」が展示されるようだ。詳しくは、神戸市立博物館のホームページを参照してほしい。

http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/museum/meihin_new/402.html

ザビエルの像

フランシスコ・ザビエルはポルトガル人ではない。司馬遼太郎さんの「南蛮のみち1」では次のように書かれている。

「フランシスコ・ザビエルは何国の国民であるか。バスクであることはまぎれもないことだが、たたバスクは文化圏であってもかれの国籍にはならない。
国籍とは、多分に近代的な法体系からうまれた概念で、16世紀のザヴィエルにまでそれを遡及させてあれこれ考えるのは、むろんむだなことである。
ただ、現代は国家の競り合う時代だから、そのことは一応考えておかねばならない。こんちにのスペイン人たちは、ザヴィエルをもってかれらの国の歴史上の人物としているのである。たしかに、ザヴィエルの父が法律知識を持って宮仕えしたナバラ王国の首都パンプロナは現在のスペインの国土にあり、またザヴィエルがうまれたザヴィエル城も、同様で、私どもはスペインの地図の中でその小さな村をさがす。・・・・」

司馬遼太郎さんの「南蛮のみち1」は、ザヴィエルの伝記といっていいぐらいに、彼のことが詳しく書かれている。ところでフランシスコ・ザビエルがバスク人てあったということは大変な驚きだ。フランスとスペインの両国にまたがる地域で、言語もフランス語やスペイン語と全く違う古い歴史のある文化圏であり、「カルメン」の「ドン・ホセ」がバスク人として登場したことを思い出す。

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フランシスコ・ザビエルは日本人のことをどのように見ていたのだろうか。
彼は当時のポルトガル国王の肝いりで日本に向かっている。
ザビエルは日本に来る前にマラッカで、友人の船長ジョルジ・アルバレスの仲介で日本人3人と合っている。その3人を通して日本人を知ろうとした。そして船長に日本について知っていることを書いて欲しいと頼んだ。当時は書く、といえばラテン語であったそうだ。ラテン語で書かれたゆえに現在までその記録は残った。

「南蛮のみち1」にこう書いてある。

「船長はその原稿をわたした。ザヴィエルは、はなはだしく心を動かした。ザヴィエルを日本に来させた契機はいつくかあげられるにしても、この船長の文章が最大のものであったろう。
 日本人は、傲慢で怒りっぽい。
 欲は浅く、はなはだ物惜しみしない。
 他の国について知ろうとする切ない要求がある。
 嫉妬を知らない。
 盗むことを憎む。
 貴人を斃せば(たおせば)、りっぱな騎士とみなされる。
 音楽・演劇を愛する。賭博をさげすむ。宗教心はつよい。

・・・・・・・・・・略・・・・・・

 ザヴィエルが、日本の鹿児島に上陸したのは、1549年(天文18)である。秀吉や家康の少年期で、武田晴信(信玄)などの活動時代であった。ときに8月15日で、聖母被昇天の祝日であるとともに、15年前、モンマルトの丘でイエスズ会を結成した日にあたることをザヴィエルはふしぎにおもった。
 その年の11月5日付けの手紙に書いている。(司馬さんの注 以下、前述の岩波文庫版から中執し、ただカナづかいなどを一部こんにち風にする。)

 私たちが今までの接触によって識ることのできたかぎりにおいては、この国民は、私が遭遇した国民の中では、一番傑出している。

 日本人はたいてい貧乏である。武士たると平民たると問わず、貧乏を恥辱だと思っている者は一人もいない。

 かれらには、キリスト教国民の持っていないと思われる一つの特質がある。
ー それは、武士がいかに貧困であろうとも、平民の者がいかに裕福であろうとも、その貧乏な武士が、裕福な平民から、富豪と同じように尊敬されていることである。

 彼等は侮辱や嘲笑を黙って忍んでいることをしない。

 日本人は妻を一人しか持っていない。

 窃盗はきわめてまれである。

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 ザビエルは好意的な印象を持って日本に向けて出発し、そして日本での実際の印象もそれに違えることはなかったようだ。
ザヴィエルは精力的に日本をまわって信者を増やしていった。
2年日本に滞在し、日本全土への布教のためにいったんインドに帰った。
ザヴィエルは日本での布教は失敗に終わったと思っていたようだが、実際はその逆である。2016年の現在、フランシスコ・ザビエルの名前を知らない人はほとんどいない。2007年の国立教育政策研究所の調べでは、小学校6年生約1600人のアンケートで、42人の歴史上の人物と業績を結びつける問題では、フランシスコ・ザビエルは98.2パーセントの正答率を誇っている。

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サン・ロッケ教会を出て、近くにあるサン・ペドロ・アルカンタラ展望台に行く。
リスボンは7つの丘の町、といわれるくらいに坂道と丘の町である。ケーブルカーの終点にもなっている。

大変展望の良い公園がある。こうしてリスボンの町を眺めると、中世の街、という言葉が浮かんでくる。高層建築がない分、空が高くて広い。
さて、ここからバスに乗ってジェロニモス修道院に向かう。

 

 

 

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