スペイン「カルメン」紀行9

メスキータ(モスク)

城壁のような外壁の門をくぐって「メスキータ」の中に入る。

_MG_7871「メスキータ」とはどういう意味なのだろう。 「メスキータ」とはスペイン語で「モスク(ひざまずく場所)」という意味で、イスラム教の礼拝堂の意味だそうだ。西暦785年、イスラム教の寺院としてアブデラマン一世の時代に建設されたという。 総面積23,400平方メートル(甲子園球場のグランド面積が約13000平方メートル)、縦約128m、奥行き約175mで約25,000人の信者を収容できたという巨大なもの。

門をくぐるとそこは「オレンジの木のパティオ」と呼ばれている中庭。
礼拝者が身体を清めた場所だそうだ。

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上の写真の高い塔はミナレット(イスラム建築の鐘楼のこと)。高さ53mで、ゴルドバで一番高い建物だそうだ。さあ、礼拝所に入ってみよう。

礼拝所に入る時、ガイドさんから「ここから10分ほどは、私から何もガイドをいたしません。皆様の感覚と感性でこのメスキータを感じてください」と言われた。

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なんとも荘厳な雰囲気。 キリスト教の礼拝所にあるような装飾や彫刻はまったくない。赤と白に塗られた二重のアーチがなんとなく東洋的な親しみを持つ。
そしてこのアーチを支える柱は各地から集められてきなもので、いわばリサイクル・リユースなので長さも違っていた。それを継ぎ足したり、床より沈めたりしながら制作されているのもイスラム的なのかもしれない。

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13世紀にレコンキスタによってカスティージャ王国がコルドバを再征服。コルドバのモスクはカトリック教会の教会堂に転用、結果的には現在のようなイスラムのモスクの中にキリスト教の教会があるという形になった。
薄暗い建物が急に天井からの光が差し込むところにでる。そこがキリスト教の祭壇。
下の写真は、以前にあったモスクの壁を壊して、その奥に作ったキリスト教の教会内部が見えるようになっているところ。このあたりからキリスト教の教会の雰囲気になってくる。

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_MG_7897イスラムのモスクとしての歴史と、キリスト教の大聖堂としてのゴシック、ルネサンス、バロックの様式が混在している。
現在は、聖マリア大聖堂となってキリスト教の信者の拠り所となっている。
世界遺産として多くの観光客を集めているが、イスラム文化とキリスト教の西洋文明の混在が文化財産になっていて、「メスキータ(モスク)」という名前で世界に知られているのもおもしろい。ガイドブックには「イスラム文化とキリスト教文化の融合」と書いてあるのもあるが、「融合」なのかどうかは簡単に言えそうにもない。

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これは出入り口のそばの廊下に展示されていたもの。
メスキータの時代の天井の板だそうだ。 当時は綺麗な彩飾がなされていたそうだが、今はその様子はまったく残っていない。 この天井板がメスキータの激動の歴史を天井から見下ろしていたのかもしれない。
この後は、メスキータを出て、市内の散策に出かけることになる。

 

スベイン「カルメン」紀行8

グワダルキビール川にかかるローマ橋

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グラナダからゴルドバまで約3時間のバス旅。 途中のドライブインで休憩。かつては駅舎だったようで、お土産物も売っていた。 そこでガイドさんに頼んで、地元の人がいつも飲んでいるコーヒーを注文した。
私好みの熱さで、コーヒーの香りも味もこれまでスペインで飲んだコーヒーで一番だった。やっぱり現地の名物は現地で味わうのが最高ということだ。

バス旅の途中で、松本侑子さんから原作「カルメン」とオペラ版「カルメン」の違いについての講義を聞く。

その講義の内容にもふれながら、まずゴルドバ ー世界遺産都市「コルドバ歴史地区」からはじめよう。
コルドバは「カルメン」の原作本に登場する街。

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この橋は「ローマ橋」、旧市街地に入るために渡る橋。
橋の向うにメスキータが見える。
川はグワダルキビール川という。イスラムが支配していた時に街の守りをしていた「カラオラの塔」の前で松本侑子さんの説明を聞く。
「カルメン」の原作は、「私」という考古学者が「ドン・ホセ」から「カルメン」の話を聞いたことがもとになって本になっている「額縁小説・枠物語」である、と松本侑子さんの説明。
その考古学者である「私」が「カルメン」に出会ったのがこのローマ橋。原作本から引用してみよう。

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コルドヴァでは、日の暮れ方になると、グアダルキヴィル川i右岸に沿ったどての上に無数の閑人が現れる。このどての上から、製革業で名高かったこの国の昔の名声を未だにとどめているなめし革工場の発散する異臭をかぐのであるが、その代わり、はなはだ見物がいのある光景を楽しむこともできる。夕暮れの鐘の鳴りわたる数分前、大勢の婦人がどての下の水際に集合する。・・・・鐘が鳴り渡るが早いか、夜になったものとみなされる。最後の鐘の響きが消えると、婦人たちは一人残らず、着物をぬいで、水の中に入るのである。それから叫ぶ、笑う、たいへんな騒ぎである。どての上から男どもはゆあみする女たちを眺める。・・・・・・
ある夕方、はやものの形も見えない頃、川岸の手すりによりかかって煙草を吹かしていると、一人の女が水際に降りるはしごをのぼって来て、わたしのそばに腰をおろした。女は髪にジャスミンの大きな花束をさしていたが、この花は、夕闇の漂う頃になると、むせるような香を放つ花である。・・・・・
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上の写真の白い花がジャスミン。アルハンブラ宮殿の庭に咲いていたもので、松本侑子さんの指摘で写真をとっていたことがここで役に立った。
コルドバが製革業で有名であったこと、カルメンが髪にさしていたのはジャスミンの花だったことはあとに関係するので、覚えておこう。

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グワダルキビール川は約100km先の大西洋に流れ込んでいる。セビーリアの街は川を遡ってくる新大陸から運び込まれた膨大な品々によって大いに発展したという。

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橋の上は、観光客目あてのパフォーマンス、アコーディオン演奏などの、いわゆる大道芸で賑わっていた。

さて、橋の岸にある城門をくぐって、世界遺産「メスキータ」のある旧市街地に入る。

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城門をくぐるとイスラム風の彫刻をほどこした建築物が目に入る。 街路樹が整然と植えられていて、その緑は、地中海に居るのだなあとあらためて思わせる。
街路樹には実がなっている。えっ、これはミカン? いいえ、地中海といえば、そう、オレンジの実がなっているのだ。
まだ色づいたばかりだが、もう少し日が経つとそれこそオレンジ色に輝くのだろうな。ただこの実は甘い種類のオレンジではなく、ジャムなどに使われているという。
街路樹の実といえば、御堂筋の銀杏、そろそろイチョウの葉も黄色に色づく頃かなと思いながら、メスキータに向かう。

 

 

スペイン「カルメン」紀行7

アルハンブラ宮殿から見た月

この月はアルハンブラ宮殿を歩いている時に撮したもの。

10月21日、さてこの月の月齢は?。

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答えの前に少し考えてみよう。下の写真の月は約1ヶ月後の11月19日の月。

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国立天文台のホームページによると、

表1 月の形と見え方
呼び名 月齢 月の形 見え方
新月(朔) 0 光っている部分がほとんどない 太陽に近い上に暗いので、新月の前後1日ぐらいは見えない。
三日月 2前後 西側が細く光っている 日の入り後の西の空で見やすくなる。
注意深く探せば、昼間も太陽の東側に見ることができる。
上弦 7前後 西側半分が光っている 昼ごろ東から上り、日の入りのころ南の空に見える。
真夜中ごろ西に沈む。
満月(望) 15前後 ほぼ全面が光っている 日の入りのころ東から上り、真夜中に南の空に見える。
日の出のころ西に沈む。
下弦 22前後 東側半分が光っている 真夜中ごろ東から上り、日の出のころ南の空に見える。
正午ごろ西に沈む。
(特別な名前は
ありません)
27前後 東側が細く光っている 日の出前の東の空で見やすくなる。
注意深く探せば、昼間も太陽の西側に見ることができる。

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上弦・下弦(First Quarter / Last Quarter / Quadrature )

・太陽と月の黄経差が90度・270度になること、あるいはその時刻が上弦・下弦です。
・半月(半月)、弦月(げんげつ)、弓張月(ゆみはりづき)とも呼ばれます。
・月の半分が明るく輝くように見えます。
・上弦・下弦の区別は沈むときに弦(まっすぐな部分)が上にあるか下にあるかによる、と言う人もいますが、単に陰暦で上旬の弦月、下旬の弦月程度の区別という人もいます。

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という説明がある。団地の上に見える月は「西側半分が光っているので上弦の月」といえる。

以前のブログで書いた「下弦の月」と違って、今回は月を正面に見て右側に太陽がある。だから月の右半分が光って見えている。ただ太陽はもう日没時間を過ぎているので地平線の下にある。
そしてこれから月は日ごとにふくらみをまして、26日に満月となる。

太陽と月の満ち欠けについて

太陽の位置と月の満ち欠けの仕組みについて簡単におさらいをしておこうと思う。
下弦の月の説明で使った、国立天文台の図をもう一度見てみよう。

月の満ち欠け1

 

月の満ち欠けは、基本的には太陽の反射がどのように見えるか、ということにまとめられる。

上弦の月

上弦の月は、地球から見て月の右半分に太陽の光があたっているように見える位置関係なので、上の図の2番のように見える。
これを地球の地面から見た図にすると、

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上弦の月は日没ころに南中する。という言い方ができる。
上弦の月を過ぎると、月は満月に向かっていく。

ではこの上弦の月の月の出はいつごろなのだろうか。それがこの図。

IMG_20151120_0002 - バージョン 2

実際に11月19日の月の出の時間を調べてみると、12時23分。確かにお昼ごろに月が昇ってくる。
ではこの日の月の入り、月が西の空に沈むのは何時頃なのだろう。IMG_20151120_0003

 

図に書いて考えると、真夜中になるようだ。実際の時刻は次の日の午前12時8分ごろ。深夜だ。

三日月

三日月というのは、正確にいうと新月から三日目の月のこと。
しかし新月と上弦の月のあいだの月を、三日月という言い方もするので、ここではこの広い意味での三日月を考えてみる。

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上の図のように、日没の頃に南西の空に出ている月が三日月と呼ばれている。

月は太陽の光があたっている面が、光って地球から見えていることを考えれば理解できると思う。
月が地平線に沈む時(月の入り)は、下の図のように太陽はすでに沈んでいる。
言いかえると、太陽が沈んでいても三日月は空にある。
三日月をすぎると月はますます丸みをおびて、満月に向かっていく。

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逆に月の出の時は、太陽はどこにあるのだろう。
下の図のように、日の出の頃は月はまだ地平線の下にある。

IMG_20151123_0007 - バージョン 2

IMG_20151123_0006 - バージョン 2

図のように、日の出の後から月が登ってくる。その時には太陽の光で月の姿は肉眼では見えない。日が沈む頃になって、月の姿が見えてくる。

下弦の月

下弦の月は以前にブログで書いたが、下の図のようなときである。
下弦の月がすぎると、新月に向かっていく。

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太陽に近い面が反射するので、地球から見ると月の左側が光って見える。
太陽が南中する頃、お昼ごろには、下弦の月は地平線に近づいて、月の入りとなる。

IMG_20151123_0010 - バージョン 2

では月の出は何時頃だろう。真夜中に下弦の月が昇ってくることが、図よりわかると思う。 IMG_20151123_0009

こういうふうにして、太陽と月の位置関係から月齢を考えることができる。

日の出の時、月齢によって空のどの辺に月が見えるか、をまとめてみたのが次の図である。 IMG_20151123_0005

こんなふうに読み取ればよい。
日の出の時に、
南の空に月があれば、それは下弦の月
南西の空には、レモンの形の月が見え、
西の空に月があれば、それはほぼ満月の月。
そして南東の空にある月は、新月に近づいていく月齢の月が見え、日の出とともに太陽の明るさのために見えにくくなっていく。

今度は日没の時に見える月を考えよう。
見える方角によってどんな月齢の月が見えるだろう。

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こちらはこんなふうに読み取ればよい。
日没とともに東の空に昇ってくる月は、満月。
与謝蕪村の句「菜の花や月は東に日は西に」の世界である。
南東の空に月があれば、レモン形の月。
南に月が見えれば、それは上弦の月。
南西の空に見える月は、三日月型の月である。
新月は太陽と同じ方向にあるため、見ることはできない。

さて、一番初めのアルハンブラ宮殿から見た月の月齢もう分かる。
お昼時に、空高くに右半分が光っている月、それは「上弦の月」と言っていいだろう。
ネットで調べてみると、この日のマドリードでの上弦の月は10月20日とあった。

 

 

スペイン「カルメン」紀行6

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ここは二日目の四つ星ホテル、Hotel Alhambra Palace .
ここの朝食会場のレストランからのながめは抜群。グラナダの街が一望できる。

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アルハンブラ宮殿の見学の後、ホテルにチェックインして、夕食はホテルのそばにあるカフェレストラン。 IMG_8793

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前菜の生ハムとチーズから始まって、野菜サラダ、カップに入った濃厚なスーブ、メインディッシュは分厚いステーキ、そしてデザートもしっかりと味のついたケーキ。パンもおかわりがでてきて、もうお腹がいっぱい。

参加者の話もはずみ、スペインの夜は暮れていった。
さて三日目は、コルドバとセビ−リヤ。

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グラナダからゴルドバへはバスで約3時間。205kmのみちのり。
バスの両側は、一面のオリーブ畑。畑、というよりも視野に入るものはすべてオリーブの木と言う方がいいかもしれない。走っても走ってもオリーブが道路の両横に植えられている。それがはるか遠い山までがオリーブ、もうオリーブだらけ。
そもそもオリーブの原産はこの地中海だそうだ。
世界のオリーブオイルの約3割はスペイン産で、そしてここアンダルシア地方の生産はスペインの約8割というから、ものすごい。ガイドさんによると「日本の人口以上のオリーブの木が植えらている」と説明があった。

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バスでスペインの土地や山を見ていると、日本のような山並みではない。高校の地学で習った山の風化や侵食による変化を思い出す。地球規模の古い歴史が積み重なった大地なのだろう。 バスから見る山は木の茂った山ではない。石灰質が多いからだろうか、山口県のカルスト台地を連想する。
オリーブは酸性土壌を嫌うそうだから、石灰分の多いこの土地では育ちやすいのかもしれない。
そんなことを思っているうちに、松本侑子さんの「カルメン」についてのバス内講義が始まった。

 

 

 

スペイン「カルメン」紀行5

アルハンブラ宮殿3

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アルハンブラ宮殿からグラナダの街を見ていると、万里の長城のような巨大な壁が見えた。少し拡大してみよう。
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ヴァレンシアの包囲戦

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私がこの写真を撮っていると、松本侑子さんが近寄ってきて、見えている城壁がイスラム軍とキリスト教軍が戦った時の城壁だと説明された。
そのとき、「赤毛のアンにこの場所ではないけれど、イスラム教軍とキリスト教軍の戦いを題材にとった詩が引用されている」とお話があった。後でツアー全体にその詳しい内容が紹介された。
その「赤毛のアン」の場面というのは、「赤毛のアン」第18章の「アン救援に行く」である。

■”I was awfully near giving up in despair,” explained Anne. “She got worse and worse until she was sicker than ever the Hammond twins were, even the last pair. I actually thought she was going to choke to death. I gave her every drop of ipecac in that bottle, and when the last dose went down I said to myself – not to Diana or Young Mary Joe, because I didn’t want to worry them any more than they were worried, but I had to say it to myself just to relieve my feelings – “This is the last lingering hope and I fear ‘tis a vain one.” But in about three minutes she coughed up the phlegm and began to get better right away……..■ 

松本侑子さんの翻訳した「赤毛のアン」によると、

「もうだめだと思って、諦めかけていたんです」アンは医者に説明した。「どんどん悪くなるばかりで、しまいにはハモンドさんところの双子の、その中でもいちばんひどかった三組の双子より、もっと悪くなったんです。ミニー・メイの息がつまって、死んでしまうんじゃないかと思いました。イビカックは、瓶にあるだけ一滴残らず飲ませたんですけど、最後の一滴を飲ませる時には、気を楽にするために、さすがに自分に言い聞かせずにはいられなかったんです。『だめかも知れないけど、これが残された最後の望みだ』って、ダイアナやメアリ・ジョーに言わなかったのは、これ以上、二人を心配させたくなかったんです。でも、三分もすると、咳をして、痰を吐き出して、みるみる良くなったんです……… 

「赤毛のアン」の巻末の注には、

・・・イギリスの女性詩人フェリシア・ドロシア・ヘマンズ(1793〜1835)の時『ヴァレンシアの包囲』第二幕の「そして私に残された最後の望み/それは汝(なんじ)が父を説得して息子の命を救わせること」より。こう語るのはエミリアという母親。彼女の二人の息子はヴァレンシアの町を守るために戦っていて、生還を教会で祈りながらこの一節を語る。アンがミニー・メイの命を失うのではないかと恐れながら、最後の望みは薬の一滴だ、とつぶやいたのは、このエミリアが子どもを失なうのではないかと恐れながら祈った言葉にちなんでいる。・・・・

ヴァレンシアは、マラガとバルセロナの中間ぐらいにある、スペイン3番めに大きな町。上の写真のような城壁があったのだろう。

松本侑子さんの「赤毛のアン電子図書館」に、「ヴァレンシアの包囲戦」のオリジナルが収録されている。

http://homepage3.nifty.com/office-matsumoto/mel07.htm

原詩は4000行近い長い詩。この部分だけを抜き出すと(1036行〜1053行)、

Elmina.
Look not upon me thus! – I have no power
To tell thee. Take thy keen disdainful eye
Off from my soul! – What! am I sunk to this?
I, whose blood sprang from heroes! – How my sons
Will scorn the mother that would bring disgrace
On their majestic line! – My sons! my sons!
– Now is all else forgotten! – I had once
A babe that in the early spring-time lay
Sickening upon my bosom, till at last,
When earth’s young flowers were opening to the sun,
Death sunk on his meek eyelid, and I deem’d
All sorrow light to mine! – But now the fate
Of all my children seems to brood above me
In the dark thunder-clouds! – Oh! I have power
And voice unfaltering now to speak my prayer,
And my last lingering hope that thou shouldst win
The father to relent, to save his sons!

そこにある松本侑子さんの解説を引用すると、

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ドロシア・フェリシア・ヘマンズ作  この物語詩の第2幕めにある一節が、『赤毛のアン』第18章「アン救援に行く」に引用されている。
 この詩は、アメリカの女性詩人ヘマンズが、中世スペインのレコンキスタ運動の闘いに題材をとって描いた物語詩。  広く知られている通り、スペインは、8世紀ごろから15世紀ごろまで、イスラム教徒(ムーア人、モーロ人)が支配していました(ちなみに、稲作、灌漑技術、建築技術、天文学、数学など、イスラム教徒がこの時代に、イベリア半島にもたらした文化には、目を見はるものがあります)。
 キリスト教徒たちは、スペインをキリスト教徒たちの手に奪い返そうと、国土回復運動(レコンキスタ)の闘いをつづけます。
 この詩は、イスラム教徒たちが支配しているバレンシアを、キリスト教徒たちが包囲して、戦闘をする悲劇的な物語詩で、バレンシア地方の長官ゴンザレス一家が、街を包囲して奪い返す戦いに加わって栄誉の戦死を遂げるまでが描かれています。
 長官の二人の息子は、戦闘に出ています。その生還を願って、息子の母親であり長官の妻であるエルミーナが、第2幕で、教会の僧侶に向かって言います。 「私に残された最後の望み、それは汝が父親を説得して、息子の命を助けさせること」。
 この一節が、『赤毛のアン』第18章に引用されています。
 この章では、アンの親友ダイアナの妹ミニー・メイが重病にかかる。しかし大人たちも医者も、カナダ首相(19世紀末に実在したカナダ保守党党首のマクドナルド首相がモデルとなっている)の演説を聞きに街へ出かけていて不在。アンが看病に当たります。  薬の最後の一滴をミニー・メイに飲ませるとき、アンは、「これが私に残された最後の望み」と自分に言い聞かせます。
 包囲戦で息子の生還を願う母親の言葉は、アンが幼い女の子の死からの回復を願う言葉として、引用されている。
 その結果、ミニー・メイは危篤の危機を脱し、一命をとりとめる。
 しかし、物語詩のゴンザレス一家は、二人の息子が死に、夫も名誉の戦死のために出陣して死に、そしてただ一人残った娘までもが、その恋人の青年の死によって世を去っていく。ただ母親のエルミーナだけが生き残る。
 この詩の背景には、国を守るための戦死、自己犠牲によるヒロイズムがある。  『赤毛のアン』には、戦争や戦いによって死んでいく若者を描いた詩がいくつも引用されているが、物語の背景となっている19世紀末には、こうした戦争詩の大流行があったようだ。  これは個人的な感慨だが、こうした名誉の戦死を讃える詩の大流行が、これから続く20世紀初頭の植民地戦争や第一次大戦の好戦的な文化を支えたのではないかと思う。
 なお、この詩「ヴァレンシアの包囲戦」の作者ヘマンズの詩は、日本でも、古くは広く愛誦された。彼女は、欧州各国の戦争を舞台に、勇気ある軍人の壮烈な爆死などを描いていて、こうした死による国防のヒロイズムが、日本でも愛読されたことは、軍国主義へと傾倒する時代を思わせて、興味深い。
 なお、この作者であるヘマンズの作品は、『赤毛のアン』全体で、三か所で引用されている。  一つめは、この詩「ヴァレンシアの包囲戦」から。  二つめは、詩「戦場の女」から、「健闘する喜び」という一節が、アンの猛勉強の場面で。  三つめは、詩「ジェノヴァの夜の一場面」から、「過去は忘却のマントで覆い隠そう」という一節が、同じく第18章、ダイアナの母親と仲直りする場面で、引用されている。

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上の写真はすべてグラナダの街に残っている城壁。
ヴァレンシアにも同じような城壁があり、このような城壁を挟んでイスラム教軍とキリスト教軍が戦ったのだろう。
レコンキスタという言い方はキリスト教側からの言い方だと思う。
松本侑子さんは解説の中で、文学と平和について、イスラム文化の果たした役割をきちっと書かれているのはさすがだ。イスラム文化の発展がなければ、ヨーロッパのルネサンスはなかったと言ってもいいと私は思う。

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「赤毛のアン」に出てくるアンの言葉の背景にある城壁を実際に見ることができ、しかも松本侑子さんからの解説が聞けるなんて、この旅でしか体験できないことだろう。
このスペイン「カルメン」の旅は、「観光というよりも勉強重視の文学ツアーだな」と私は一人笑いながらつぶやいた。