ベイマックス9

チューリングテスト2

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「コンピュータは人間のように思考することはできるのか」 という問に、チューリングはその可能性を考えていた。

左の本に「機械は考えることができない」と主張する人へのチューリングの反論が書いてあった。

チューリングは自分の考えに反対する人々への反論をすでに考えていたことにびっくりした。またそれがまだコンピュータが現在のように発展する前に考えていたことにも驚いた。

その主張を本にそって見てみる。

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前回に説明したように、チューリングは二つの部屋(一つには人間、もう一つの部屋にはコンピュータ)とのキーボードとディスプレイによる会話を想定した。
その会話からどちらに人間がいるかを判定するというものである。
チューリングは判定者が、コンピュータと当てられる確率は7割ぐらいだろうと予想した。

ここで言われているのは、判定者がどう感じたか、が重要なのである。コンピュータの内部の動きを見て、それが思考にあたるかどうかを判定しているのではない。
ではチューリングの反論を見てみよう。

1、神学的な批判
 人間が人間と同等の知能を持つ機械を作ることは神への冒涜である。
チューリングの反論
 ガリレオの事例に見るように、科学の発展に従って神学的立場は時代とともに変化しているから、このような批判は無意味である。

2,現実逃避の反対意見
 人間よりも能力がある機械が生まれることは恐ろしいことだ。
チューリングの反論
 このような抵抗は感情論だから慰めを持って対応すべきである。

3,数学的立場からの批判
 ゲーデルの不完全性定理やチューリングの計算可能性に見られるように、機械にはある種の限界があるから人間と同様の知能を持つことはできない。
チューリングの反論
 チューリングテストの結果を見るように、人間でも機械でも誤りはあるので、数学的判定だけで人間の優位性を証明することはできない。

4,意識の点からの批判
 
機械には意識や感情を持つことはできない。
チューリングの反論
 
意識があるかどうかは機械になってみないとわからない。その考えを推し進めると唯我論におちいる可能性がある。それを回避していくと、チューリングテストの結果を受け入れざるをえない。

5、機械には人間にできるいくつかのことができない
 機械には、親切や機転が利く、愛想が良いなど人間にできる諸々のことができない。
チューリングの反論
 機械には意識がないという4の批判が形を変えたものにすぎない。

6、ラブレイス夫人の回顧録の引用
 バベッジの解析機関に関与したラブレイス夫人の回顧「解析機関には何かを創りだすことはできないが、わたしたちが命令することならなんでもできる」にあるように、機械は自分で考えることはできない。
チューリングの反論
 機械が創造的な仕事をするかどうかは受け手側の主観による。ときに機械は予想に反したことをして我々を驚かす。これをもって創造的な仕事と解釈してもよい。おそらくバベッジもラブレイス夫人も解析機関の潜在能力についてわかっていなかったと思われる。

7、機械は脳神経の構造とは異なる
 脳神経は連続状態を持つが、機械は離散状態しか持たないため、そもそも構造が異なっている。
チューリングの反論
 チューリングテストによって機械を判定することを考えれば、内部の構造のちがいには意味が無い。また、連続状態の機械を作れば、この脳神経の連続状態に近似した計算を行うこともできる。

8、人間の行動には規則に縛られない自由度がある。機械は規則に縛られている。
チューリングの反論
 確かに人間のすべての行動を律する規則を作ることは困難だ。しかし一方で、行動規則ではなく行動法則を考えてみよう。行動法則とは「つねると悲鳴を上げる」といった類のことだ。そのような行動法則が人間にはない、と自信を持って断言することはできない。機械はプログラムによって動くが、一見行動法則がわからないようなプログラムで機械を動作させることはできる。しかしながらその実、機械はプログラムによって行動法則が規定されているわけだ。人間の行動法則も、観察が不十分なだけでこの機械のプログラムのように何らかの法則に支配されている可能性はある。

9、超能力からの批判
 機械はテレパシーなど超能力を持つことはできない。
チューリングの反論
 (超能力の存在を認めた上で)機械は超能力に対向することは困難である。チューリングテストはテレパシー防止室を設け対応すればよい。

 チューリングは何か楽しみながら返答をしているように私には思える。

さて今も人工知能への批判は繰り返しなされている。チューリングはすでにこのことを見通していたかのようである。

リアルな世界への深い関わり

この本の著者によると、現代では「人間の思考の仕組みを解明し、それに準じた機械を実現」しようとする原理主義派と「人間と同等の知性を持つ機械は実現できないとする」実現不可能派、そしてグーグルの翻訳機能のように「人間が導く結論と同等の結論を出す機械の開発を目指す」実用派という三者があるようだ。
人間の脳とそっくりの機械ではないが、出てきた結果が「人間と同じような思考をした」かのように見える人工知能の研究が進んでいるようだ。
著者は本の最後を次のような文章でしめくくっている。

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「雁行の乱れ、敵の伏兵を知る」という言葉がある。源義家が、前方の雁が乱れ飛んだのを見て敵軍が潜んでいることを直感的に察知し、敵軍を全滅させたことが由来だ。「雁が乱れ飛んだ」という情報は義家が明示的に予想し観察して得た情報ではない。彼の感性が雁の行動を瞬間的に敵軍の動きに結びつけたのだ。おそらく誰もが義家のように雁の動きから敵軍を想定できるとは言えないだろう。感受性は個性なのだ。
 ITは演繹と帰納でのみ有効なのだ。なぜならば、ITは今まで歴史を見てきたように、論理演算をベースとしているからである。論理演算は演繹そのものだ(アリストテレスの論理学は演繹である)。さらに、情報検索で用いられる統計解析は帰納なのだった。つまりいくら工夫してデータを入力したところで、ITは雁の行動から敵軍の戦術に繋がるような発見を提示してくれないのである。
それは人間が専ら担当する責務なのだ。
 結局、情報社会において我々が守らなければならないのは、人間の個性による創造性の発揮なのだ。
 逆説的に言えば、ITの発達はかえってITではまかないきれない人間固有の情報の必要性を浮き彫りにするものなのである。
 情報社会だからこそ、我々は外に出て、リアルな世界と深く関わり、自らの感性を磨く必要性があるのかもしれない。

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この意見に私は賛成だ。
リアルのものとの関わりこそが人間性を高め、深めてくれる。
豊かな自然と豊かな人間関係が、人間を人間たらしめるのに最も必要なものだと思う。