円卓

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最近読んだ本と見た映画。

映画化される前に原作を読んでおきたいと思い、図書館で借りた。 映画を見た後、もう一度読んだのがこの本。

「円卓」
 西 加奈子著
 文藝春秋発行

この本の奥付は、
2012年3月5日
第一刷発行
と、なっている。

映画を見てもう一度原作を読んでみる、ということはほとんどないのだが、この本はそうする気持ちにさせられた。

円卓1

「うるさいぼけ」は主人公こっこのくちぐせ。ポスターに本にも「うるさい」、と書いてあるが、本当は大阪では「うっさい、ボケ」と言う。
映画では「うっさいぼけ」と正しく芦田愛菜さんが言っていたので、ニッコリ。そうそう、それでぴったり。

何かで原作者の西さんが、「うっさい、が本当だが、全国的にわかってもらうために、うるさい、と書いた」というのを読んだことがある。なるほど。

映画で芦田愛菜さんの「うっさいぼけ!」の連発があったが、気持ちが良いだろうなあと、思わず笑ってしまう。
でもこの感覚、大阪人以外で通用するのかなあ。

この作品は映画と本の両方のセットがいいと思う。
映画のセリフのほとんどが原作通り。本もセリフだけで構成されているところもある。こっことぼっさんのセリフがこの作品の核であり、質を高めていると思う。

こっこが朴くんの不整脈の真似をしてジビキに怒られる。その怒りに本気を感じたこっこは「なぜ?」と考える。ぼっさんに相談する。その場面を本から。

「わ、わかった。ほ、本人が、それを、どれだけ嫌がってるかに、よるんと違うか」
「本人が?」
「ぱ、朴くんの不整脈も。香田めぐみさんの、も、ものもらいも。本人が、格好ええやろ、て、思とったら、え、ええけど、嫌や、い嫌やって、思てるんやったら、な、何もせんほうがええんと、違うか。」
「でも、それどうやったら分かるん。本人が嫌がってるか、格好ええと思ってるか。」
「そ、想像するしか、ないんや。」
そのとき、イマジン、と、石太が呟いた。日常英会話辞典を開かなくても、イマジンは分かるのだ。
「いまじん?」
「想像する、の英語や。」
「ふうん。」

・・・・略・・・・

「い、いまじんは、大切なんやの。」
「儂はな、儂は、そう思う。ぼっさんと、琴子が、どう思うかは、お前らで、決めたらええ。ただ、自分が思って、言うたことには、責任を持たなあかん。」
「責任?」
「そうや、例えば、琴子が、ぼっさんの話し方を格好ええと思たんやったら、その思いに、責任を持たなあかん。もしかしたら、ぼっさんを傷つけることになるかもしれんけど、それは自分が、心からおもったことなんや。て、言わなあかん。堂々とな。」
「分かった。」

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   :

「相手の立場に立って」とか「他人の思いに寄り添う」とか「言われた人の気持を考えて」という、教訓的な言葉はまったく使わない。
映画もほとんど同じようなセリフが続く。こっことぼっさんは小学3年生、石太はこっこのおじいさん。時間と世代を越えた、人の生き方を考える場面。
「イマジン」すばらしい。

夏休みにある経験をする。その前後からこっこはあまりしゃべらなくなる。その説明がいい。

「あまり話さなくなったこっこは、その分、自分の体の中で、文字や思いがじくじくと発酵していくような、そして、外の暑さとあいまって、その発酵の速度が日に日に増しているような気がしていた。
思いはたくさん、あふれるほど胸をつくのだが、それを言い表す言葉を見つけられなかった。というより、言葉を発する瞬間に、わずかな重力を感じるようになった。何か言いたいことがあっても、その重力のため、口が簡単に開かなくなったのである。重力から解放される場所にたどりつくまで言葉を探すのだが、大概は、それを探し当てる頃には、もう遅かった。(p130)

最近のこっこは、ずっとそうだった。何か言葉を発するとき、行動を起こすとき、以前のような重力を感じるより先に、あ、分かった、と思う。「分かった」正体が分からないのだが、「分かった」という感覚だけが熱を持って、はっきりと胸にあるのだ。
届いた手紙に自分で納得して、その返事を書かないような、言葉を発しないことに対する裏切りの感情がよぎるが、「だって分かった」のだ、という強い熱が、それを制する。うちは、分かってん。こっこは黙る。ずっと無口だ。(P154)」

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本を読んでいて、芦田愛菜さん演ずるこっこを見ていると、その思いが画面から伝わってくる気持ちになる。
何かを見て、誰かの意見を聞いて、「分かってる」という思いは私も何度も経験したこと。小学生にもその感覚があったことをこの映画と本を読んで思い起こした。

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映画では説明がなかったが、先生のジビキも本を読んででいると、結構いい先生。
わたしがそうおもったのはここ。

夏の一ヶ月半が、子どもを劇的に変えるのだ。だがその変化に、本人は気付かない。気付くのは、いつも成人である。
ジビキは日に焼けた皆の顔を見、その圧倒的な変化に、怯えに似た感情を抱く。自分だけが取り残されているような気分だ。
・・・・
・・略・・
・・・・・
この子らの延長に、自分のような人間がいるのか。
では自分も過去、こんなに眩しかったのだろうか。

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映画のチラシにもあるように、「だれもが小学校3年生を経験している」。
しかしジビキのように、眩しさをおぼえ、子どもたちに畏怖の気持ちを持つ大人はどれだけいるのだろう。そういう意味で、大人向けの映画かもしれない。

私が映画を見た時は、ほとんどが小学生や中学生の子どもを持っていてそうな人たちだった。声に出して笑い、うなずき、考える場面もしかけられている映画だった。

かつて灰谷健次郎さんの作品が、子どもの現実をリアルにえがいている作品だと話題になった。この「円卓」にもそれに通じるところがあると私は思った。しかし「円卓」には、灰谷健次郎さんの作品に私が感じたような、生真面目すぎるような緊張感や教訓的ともとれる語りはない。
在日韓国人、難民、ボートピープル、吃音、変質者と活字にしてびっくりするような登場人物が出てくるのに、押し付けがましさがない。等身大の姿でせまってくる。

すべての大人が、とりわけ子どもの成長に関係している人が原作の本を読んで、映画で見たらいいと私は思った。

 

 

 

 

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