When Marnie Was There           思い出のマーニー

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「思い出のマーニー」を原作で読みたくなったので、アマゾンで注文した。子ども向けの本だからそれほど難しい単語もないだろう、日本語に翻訳した本もあるし、一回読んでいるから内容もわかっている。
日本語の翻訳は、上下2冊になっているが、原作は280ベージほどの一冊本。章立ては37章だから一日一章読んでいけば一月あればいいだろう、という計算をした。内容がわかっていたので、辞書をひくこともなく、一月をかけずに読むことができた。

岩波文庫の「思い出のマーニー」は松野正子さんの訳で、松野さんは「思い出のマーニー」を書いたジョージ・G・ロビンソンさんの他の本も訳している人。
「思い出のマーニー」を読んでいる時、日本語ではこうなっているけれど、原文では何と書かれているのだろう、と思うところがいくつかあった。

マーニーの特徴を表す、「ふつうの顔」「アンナの無表情」「やってみようともしないこと」や、ペグおばさんがアンナに呼びかける「いい子ちゃん」とか「金みたいにいい子」は英語で何て言っているんだろう?と読んでいて思った。
それからこの本のテーマとも言える「内側の人」「外側の人」。
わかったことを紹介してみよう。

ふつうの顔・・・’ordinary’ look
アンナの無表情・・・’wooden face’
やっても見ようとしないこと・・・not-even-trying
いい子ちゃん・・・little lass, my duck, my biddy など
金みたいにいい子・・・She is as good as gold with us

なるほどね、、、翻訳という作業は辞書だけではなく、生活を知ってないとできないものだなあ。

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物語の最初にアンナが「内側」「外側」について言っているところ。

But Anna was not interested. Not any more. She knew perfectly well – though she could never have explained it to Mrs Preston – that things like parties and best friends and going to tea with people were fine for everyone else, because everyone else was ‘inside’ – inside some sort of invisible magic circle. But Anna herself was outside. And so there things had nothing to do with her. It was as simple as that.

「けれども、アンナは、ちっとも行きたくなんかなかったのです。そんなこと、けっこうでした。ミセス・プレストンにはうまく説明することはできませんでしたが、アンナにははっきりとわかっていることがありました。つまり、パーティだの、親友だの、お茶によばれるのだということは、ほかの人たちには、とても大切な、すばらしいことなのです。なぜかというと、ほかの人たちには、みんな、”内側の人”ーなにか、目に見えない魔法の輪の内側にいる人だからです。アンナ自身は、その場の”外側”にいました。だから、そういうことは、アンナとは関係のないことなのでした。実に、簡単明瞭なことでした。」(松野正子さん訳 以下同じ)

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 第37章

It was raining harder now and she was beginning to get wet, but it did not matter. She was warm inside. she turned and began running back along.the dyke, thinking how strange it was about being “inside” or “outside”. It was nothing to do with there being other people , or whether you were ‘an only’, or one of a large family – Scilla, and even Andrew, felt outside sometimes;  she knew that now – it was something to do with how you were feeling inside yourself.

「雨がひどくなっていました。アンナはびしょぬれになりかかっていましたが、ちっとも気になりませんでした。心の中が、ほかほかとあたたかでした。アンナはむきをかえて、”内側”にいるとか、”外側”にいるとかって、ほんとにふしぎだなと思いながら、堤防の上をかけ出しました。それは、ほかの人がいっしよにいるとかいないとか、一人っ子だとか大家族の一員だとかいうようなこととは関係のないことでした。(プリシラや、それからアンドルーでさえ、ときどきは、自分が”外側”にいると感じていることがあるのを、アンナは、もう、知っていました)それは自分自身の中でどう感じているかによることなのでした。」

IMG_20140506_0004 そして最後に、

 ”For goodness’ sake!”  she  exclaimed. “You’re drenched!!  What have you been up to ?  Have you been outside in all this?”
 “Yes,” said Anna, and she laughed. 
“But I’m inside now!”
“I should jolly well think you are,” said  Mrs LInday,・・・・

「まあ! どうしたの!」と、ミセス・リンゼーは叫びました。
「びしょぬれよ! 一体全体、何をしていたの? このお天気に外にいたの?」
「ええ」とアンナはいいました。そして、声をたてて笑いました。「でも、あたし、今はもう、中にいるわ!」
「たしかに、あなたは中にいる、と思いますよ」と、ミセス・リンゼーはいいました。」

 最後のミセス・リンゼーの言葉を「たしかに、あなたは中にいる、と思いますよ」と訳すところに松野正子さんの妙味があると私は思った。

そして、河合さんが「子どもの本を読む」で紹介している、アンナがマーニーを思い出して涙をながすところ(第23章)。

 But even as she wept, a new and delicious sadness was creeping over her.  The sadness one feels for something enjoyed and now over, rather than for something lost and never found again.

「けれども、泣きながらも、新しい、気持ちのいいさびしさが、アンナにしのびよって来ていました。それは、なにかを楽しんで、そして、それが終わった時に感じるさびしさで、なにかをなくして、もう二度とそれを見つけることができない時のさびしさとは、ちがいました」

私ははずかしながら、英語ではピンとこず、日本語訳を読み返して、「ああ,こういうことか・・・」と納得したところ。

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 原書には、日本語訳の本にはない後書きがあった。

作者ジョーン G ロビンソンさんの娘さんデボラ・シェパードさんによるもので、2004年4月、となっている。
日本語版の新版は2003年だから、その後に書かれたものだろう。
この「思い出のマーニー」の背景となることが書かれていた。そして1988年に亡くなられたことも。

岩波の「思い出のマーニー」の訳者あとがきは、1980年9月となっている。松野さんが訳された時はまだまだご健在だったのだ。

このデボラさんの後書きに、「思い出のマーニー」に感動した日本人の青年が、舞台となった場所を探して見つけるというステキなエピソードが紹介されている。

 Thirty years after the book was published, I heard how a Japanese man had recently arrived in the village looking for “Little Overton”.  Many years before, as a young teenager, he had read When Marnie Was There in Japanese. The book had made a great impression on him and he very much wanted to see the place where the story was set・・・・

河合さんの「子ども本を読む」に本を読むことと「たましい」との関係が書いてある。
・・・・「たましい」ということは、心にも体にも関係を持っている。従って、ひとつの作品が「たましい」と関連しているとき、それを読んだときの感動は、何らかの意味で身体的な反応に表れるように思う。・・・・

この日本人の青年は10代で読んだ本が、イギリスに行ってマーニーやアンナがいた場所を探そうと働きかけたのだ。

さて、ジブリの作品はどうなるのだろう。原作とは全く違ったものになると予想はするが、楽しみなことも確かだ。

 

 

 

 

 

思い出のマーニー

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ジブリの次の作品は「思い出のマーニー」という報道を見て、もう一度読んでみることにしたのがこの本。

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昨年の映画「風立ちぬ」を見た頃、宮﨑駿監督が岩波新書で岩波少年文庫の紹介しているものを買った。その本を読んだ時にも「思い出のマーニー」が取り上げられていて、読みなおしてみようかなあと思っていたのだ。

この本はいったん絶版になり、2003年に新版となった。私は旧版の時に読んでいるのでかなり昔のことだ。
時や時間をテーマにしたファンタジーという印象が残っていたが、読み返してみると違っていた。人の心の成長ということについて、もっと深いメッセージを送っていることに気づいた。

読んだ人の感想をネットで見ると、様々な立場の人が各人各様の受け止めをされているようだ。それだけ作品の内容が深いということだと思う。
あらすじ書かない。ただ、
上巻の裏表紙に「養親の元を離れ、転地のため海辺の村の老夫婦にあずけられた少女アンナ。孤独なアンナは、同い年の不思議な少女マーニーと友だちになり、毎日二人で遊びます。ところが、村人はだれもマーニーのことを知らないのでした。」
下巻の裏表紙には、「ある日、マーニーは、無人の寂しい風車小屋でアンナを置き去りにし、姿を消しました。彼女を探すうちに、マーニーの思いがけない秘密を知りましたー。ドラマチックな体験をした思春期の少女の物語。」と書いておこう。
この「村人はだれもマーニーのことは知らない」と「思春期の少女の物語」がヒントになっているとあとから気づいた、。

IMG_20140210_0003_2この「思い出のマーニー」については、河合隼雄さんが「子どもの本を読む」と言う本で紹介されていることは知っていたが、読む機会がなかったので今回読んでみた。
なるほど、こんなふうに読むのか、と私の知らないことを多く教えてくれる本だった。
こどもの本には人間を多面的・多重的に理解するために必要な「たましい」との関わりに触れたものがあると河合さんは説明する。
心が傷つき、そのことに一切触れないように成長してきたアンナにとってのマーニーの存在とは何か、ペグおばさんやサムおじさん、ワンタメニーのような人たちの存在が私たちにとって大切なことを知ることができたし、物語を通して、読んでいる人たちの心を成長させてくれていることに気づくことができた。

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並行して同時に読んでいた本が この「教師の資質」。これは図書館で借りたが、私の後には40人以上の人が予約で待っているという本。

著者の諸富祥彦さんは以前に読んだ「教師がつらくなった時に読む本」という本で知っていた。
本のサブタイトルが「できる教師とダメ教師は何が違うのか?」とあって、ちょっと刺激的だし、目次を見ると第1章が「お子さんの担任の先生は、大丈夫?」とある。「えっー、諸富さんもこんな言い方をするの?、ダメ教師とか問題教師なんて言い方、いやだなあ」と思いながら読んだ。
基本的なスタンスは「今は教師受難の時代です。しかしどうか教師をやめないでください。教師ほど、魂を打ち込める素晴らしい仕事はありません」なので安心した。
効率よく、目立った成果を求め、そのように出来る人、そうさせる人が評価される、それが今の時代の特徴だろう。
おとなも子どもも、「思い出のマーニー」のアンナのように、人が成長し育っていくには時間がかかるのだと思う。アンナのように、周りにペグおばさんやサムのような人がいることがどんなに大切なことか。
厳しく育てることが必要という声も聞く、しかし厳しい分だけ、意識的に暖かく見守ることを忘れてはいけないと思う。
人の一生に、自分がどれだけ責任が持てるのかと思うと、私の心は緊張に震えてしまう。