ごぼうかりんとう

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これは私のお気に入りのおやつ。
以前に新聞に紹介がのっていて、作ってみると思ったより美味しくて、家族にも人気のあるおやつ。
材料はごぼう、たまご、薄力粉など身近にあるものですぐに作ることができる。さて、用意するものは。

 ごぼう・・・・・・・・60g
薄力粉・・・・・・・・120g
ベーキングパウダー・・小さじ1/2
たまご・・・・・・・・1/2個

きび砂糖・・・・・・・15g

IMG_7090 有塩バター・・・・・・10g
塩・・・・・・・・・・ひとつまみ
仕上げ
黒砂糖(粉末)・・・・100g
水・・・・・・・・・・大さじ2
写真では倍の分量で作っているので、たまご1個になっている。
きび砂糖がなかったので、黒砂糖で代用。
レシピ通りの材料でなくても大丈夫。
*  *  *  *  *  *  *  *  *
① 薄力粉、ベーキングパウダーを合わせてふるう。
② ごぼうは包丁の背で皮をそぎ落とし、適当な大きさに切り、フードプロレッサーで細かくする。
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③ 有塩バターは湯煎にかけて、溶かす。
(バターがなかったので、マーガリンで代用)
④ ボウルにたまごを溶きほぐし、きび砂糖、塩をあわせて泡だて器でまぜる。
⑤ ②のごぼうとバターを加えてまぜる。

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⑥ ①の粉類を加え、粉っぽさがなくなるまで、カートなどで混ぜ合わせる。

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⑦ 生地がある程度まざったら、手でひとかたまりにして、なめらかになるまでこねる。ラップに包み、冷蔵庫で1時間ほど休ませる。

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⑧ 打ち粉をした台に、冷蔵庫で休ませた生地を出し、めん棒で長方形に伸ばし、幅8ミリぐらいの長方形に切る。

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⑨ 熱した油(温度の指定がなかったので、170度ぐらいにした)に入れ、水分が飛んでカリッとなるまで箸でかえしながら、じっくりと揚げる。

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⑩ クッキングペーパーなどの上にとり、油を切る。
⑪ フライパンに黒砂糖と水を入れて、中火にかける。沸騰して砂糖が溶けて細かい泡立たつまで過熱する。

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⑫ ⑩を入れ、まんべんなく砂糖が絡んでつやがなくなり、くっつかなくなるまでまぜる。オープンシートなどにあけて冷ます。

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IMG_7152はい、できあがり。
揚げて温かいうちは柔らかい。
半日ぐらいおく歯ごたえがでてきて、かりんとうらしさがでてくる。
このレシピでは甘すぎるかもしれない。蜜をつくるときに砂糖の量を加減して好みの甘さに変える工夫もできる。
一度レシピどおりに作ってみて、甘さの調整を考えみるのもおもしろいと思う。

 

私の家では「つい手が出てしまう」と、作りがいがあるお菓子だ。

 

 

 

教科書体と明朝体3

ひらがな

ひらがなについて考えてみよう。

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左の写真は一番私たちが目にすることが多い明朝体。
パソコンでフォントを変えてプリントしてみると、明朝体と言っても様々なデザインがあることがわかる。

年賀状の時には、様々なデザインの文字が年賀はがきの上で見られるようになった。どんなデザインであっても、ひらがなであることはわかるし、読むこともできる。
それは、私たちが文字に慣れたからである。鉛筆の文字でも、ボールペンや万年筆、筆で書いてあってもひらがなとわかるし読むことができる。人間の文字認識能力の素晴らしさだと思う。

出版会社は読みやすい文字にこだわってきたと思う。では「書く」という視点で見ればどうだろう。
初めて文字を習う子ども、鉛筆を持って初めて文字を書く子どもにとって、手本となる文字はどんな文字がいいのだろう。
鉛筆が学校で本格的に使われるようになったのは、1920年(明治10年)前後からだと言われている。それまでは毛筆であった。筆で書いた楷書が字のお手本だった。

教科書体を作っている会社のホームページを調べてみた。
まず「欣喜堂 活字書体設計」より

しおりhttp://www.kinkido.net/Japanese/shiori/shiori.html

 

続いてワープロソフトの一太郎の最新版に乗せられている教科書体を作った会社
ゆう

http://shop.tokyo-shoseki.co.jp/shopap/feature/theme0043/

 

かな文字の入門期の子どもたちにとって、書くという視点から作られた文字が教科書体だということがわかる。

中学校国語を出版している東京書籍のホームページには、小学校から中学校への移行について書かれている。以下にそのコピーを記す。

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小学校では,多くの教科書の本文書体に「教科書体」が使われています。教科書体は,筆遣いや字形を書き文字(筆写の場合の文字)に近づけたもので,国語や書写で学習する文字との齟齬がなく,文字の書き方を学習していく小学生が使用する教科書に最も適した書体といえます。一方,中学校では,多くの教科書の本文書体に「明朝体」が使われています。明朝体は,一般に最も可読性(読みやすさ)に優れているとされ,小学校に比べはるかに文字量の多くなる中学校の教科書に適した書体といえます。また,新聞や書籍をはじめ一般社会では,明朝体が圧倒的に多く用いられており,社会生活に慣れるという点でも,中学校から明朝体で学習していくことが適切だと考えられます。
しかし,明朝体は可読性に優れている反面,筆遣いや字形が書き文字とは違うため,文字の書き方の学習に適した書体ではありません。例えば,「しんにょう」や「心」「令」などの文字では,明らかに形が違います。また,「いとへん」は6画で書きますが,明朝体では折れの部分が2画に見え,8画で書くかのように見えてしまいます。中学校の国語では漢字を新たに1130字も学習しますが,これらの漢字を明朝体で学習してしまうと,筆遣いや字形を間違えて覚えてしまうことになりかねません。

http://www.tokyo-shoseki.co.jp/question/j/kokugo.html
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IMG_20140208_0001東京書籍のホームページには、「明朝体は読みやすさには優れているが、筆遣いや字形が書き文字と違うため、文字の書き方の学習には適した書体ではない」ときっちりと書いている。教科書体も出版社によってデザインの違いがある。しかしはじめて鉛筆を持つ子どもたちにとって、書き順や筆遣いがわかりやすいように工夫がされていることがわかる。見て、見たとおりに鉛筆を動かせば正しい文字がかけることをめざしているようだ。
さて、書き文字も年代によって多少の違いがある。
上の写真の下二つ、①と②は手書き文字。
①は普通見られる手書き文字の代表だと思う。
②は個性的。「そ」の一画目は離れている。「ふ」は一画目と二画目がしっかりとつながり、三角目と四画目は対称的に書かれている。「や」の二画目ははねずに一画目を突き出している。「せ」は二画目をはねずに止めている。
では②の手書き文字はまちがいなのか?
もちろんそうではない。間違いだと言ったら私が怒ります。
なぜなら②は私が書いたひらがなだから。私はこのように書くように習ってきた。これまで「このひらがなは間違っています」と修正された記憶もない。
私なりの理屈がある。「そ」は「曽」という漢字からできたので一画目と二画目が離れて当たり前。
「ふ」は「不」からできているので三角目と四画目が向かい合って当たり前。
「や」は「也」からできているので二画目が突き出て当たり前。
「せ」は「世」からできているので二画目をしっかり止めて当たり前。
これは屁理屈だと自分でも思う。たぶん小学校の時には教科書体のように書いていたと思う。ただたくさんの活字に触れているうちに多様な書体があることを知り、(今は懐かしい)ガリ版をきったり、原稿用紙のマス目を埋める仕事をしているうちに②のような書き方になったのだと思う。
書き文字にも多様性がある。大人のひらがなを小学校の入門期の文字で優劣を決める必要もない。
ただ言えるのは、はじめて書き文字・ひらがなにふれる子どもたちにとってはスタートは教科書体の文字がいいと思う。
そしてその教科書体も、より「書くときにわかりやすい」文字へと追求と努力が行われていることに驚き、ありがたいことだと思う。

 

 

 

地球の公転3

二十四節気(にじゅうしせっき)

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立春
(2月4日)、
雨水
(2月19日)、
啓蟄(3月6日)、
そして春分
(3月21日)と春が近づいている。
左の図は二十四節気の図。日本では江戸時代から使われていたという。
立春は二十四節気においては、1年を24に分けた時の第1番目に当たる。
(図はクリックすると拡大します)

IMG_20140206_0002 天文学的には、春分を0度として、地球が太陽の周りを315度回った時を言う。
あと45度まわれば(15度、約半月ごとに雨水、啓蟄、を経過して)スタート地点の春分に戻る。
それが地球が太陽の周りを1回まわりおえたこと、つまり1年たったことになる。

江戸時代の人々も円は360度を知っていた?

渋川春海1上の説明で、江戸時代では1年を24の節気にわけ、天文学的にはその間が15度ということがわかった。15度✕24=360度だから理屈にあっている。と今の私たちは考える。では、江戸時代の人々もこのことを知っていて、1年を24にわけたのだろうか。
左の図は、映画「天地明察」の上映にあわせて大阪市立科学館が特別展を開いた時の資料。この資料のように天文図の展示があった。私も特別展を見に行ったが、どうも360に分割しているようにみえる。館内では数えられないので、インターネットの資料を探してみた。

天文分野之図

上の写真と同じものではないが、渋川春海が作成したと言われている「天文分野之図」があった。
たしかに分割していることがわかる。
円周に白と黒の四角形がならんでいて、何等分かしている。
拡大コピーして数えてみた。
あれー? 360を越えた・・・。
365ある。もう少し詳しく見ると、子を◯で囲んである所の黒の四角はこれまでの四角より細い。そう、365と4分の1。
1年の長さ分にわけてあるのだ。

天文分野之図_2

 この図が書かれた1670年代は、円を360度に分けているのではなく、一年365日と4分の1に分けているのだった。

和算で有名な建部 賢弘(たけべ かたひろ、寛文4年(1664年)6月 – 元文4年7月20日(1739年8月24日))の時代になって、円を一年で分割するのではなく、360で分割するようになってくる。これは海外からの文献の輸入などによって知られるようになったのであり、日本で開発されたのではない。
伊能忠敬の日本地図作成の様子を映画やテレビで見る時がある。角度を測っている場面もあるし、そのような説明もある。この調査は1800年からはじまっているので、測っている角度は現在のものと同じ。私たちが円は360度と知っているのは、当たり前になっているが、それは明治以後の学校教育のおかげ。
江戸時代では、建部賢弘や伊能忠敬のような専門家レベルの知識だったのだ。
角度という概念は、明治以後の数学教育によって広がったと言われている。