藍とあい

関寛斎とその妻、あい

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徳島を訪れた時には是非見たいと思っていたのがこの石碑。
関寛斎先生の碑と石碑を作られた人の思いが記された碑がならんでたっている。そこにはこう書かれている。
「関寛斎先生は長崎でオランダ軍医ボンベについて西洋医学教育を受けられた。1862年阿波藩に藩医として招かれ、日本新政府の奥羽征伐に軍医として出陣し治療にあたり名声をはせた。
此の像は当時フランス式軍服を着用し医書をかかえた姿である。1870年、先生は軍医としての功績が評価され医学校開設を許された。これが徳島の医学校の第一号である。1872年先生は此の像の場所の近く、即ち現在の城東高校校庭の一部の場所に居を構えて以来30年間市民の診察を行った。富者には診療費を高くし、貧者からは金をとらず俗に言う赤ヒゲ先生であった。72才で医業を廃し、北海道開拓に向い83才で他界された。
そして過ぎし40年の徳島時代の生活を回顧して
「世の中を わたりくらべて今ぞ知る
阿波の鳴門は 波風ぞ無き」と詠っている。
私達は先生の遺徳をしのび、
・・・・・略・・・・・
先生の長く生活された此の地に此の胸像の碑を建てることができました。
2006年9月 医博 大櫛以手紙 記」

IMG_6368ここは城山の東にある中徳島湖畔緑地。新町川沿いにある緑地。春には桜がきれいな花を咲かせることで有名らしい。私達が行った時はほとんど人影は見えなかった。
関寛斎先生は徳島生まれの人ではない。上総国(かずさのくに)東中の農家の子として生まれる。現在の千葉県東金市である。
関寛斎の碑
IMG_6381ここは石碑にあった城東高等学校。
前身は徳島県立高等女学校である。
此の地に関寛斎先生の医院と住居があったという。時間に余裕があれば学校の中を見学したかった。この学校の卒業生に、小説家の瀬戸内寂聴さん、漫画家の竹宮恵子さんがいる。

私が関寛斎先生の碑を見たかったのは、以前紹介した本、高田郁さんの「あい 永遠に在り」を読んだからである。
此の本のあとがきに、高田郁さんはこう書いている。
「関寛斎は、徳富蘆花氏や司馬遼太郎氏を始め多くの作家によって題材とされた実在の人物です。戊辰戦争で極めて人道的な活躍をした経緯もあり、また非常に几帳面で筆まめな性格であったため、彼にまつわる資料は数多く残されています。けれども、その妻、あいに関しては今日に残るものは殆どありません。
手織りの木綿の布地が少し、着物一枚、帯締め、家族写真数葉。現存するものはそれだけです。あとは「婆はわしより偉かった」等の寛斎の言葉が残るのみ。その言葉に着目して、あいの物語を構築しました。」
徳島から帰ってからあらためてこの本を読み返してみた。読みながら徳島の町を思い出し、写真を見て、関寛斎と妻あいの生活や生き方、一生について想像してみた。
藍染体験をして藍について関心が高まっていたので、この小説に多くの藍染めや徳島の藍の記述があることにあらためて気づいた。目次を見てみると、第一章 逢、第二章 藍、第三章 哀、第四章 愛、となっている。「逢」にはじまり「愛」に終わる物語なのだ。関寛斎という歴史に残ることになった人物には、支え、はげまし、ともに喜び、ともに悲しみ、ともに歩んできた妻のあいがいることに光を当てたのが高田郁さんのこの小説である。
「人たる者の本分は、眼前にあらずして、永遠に在り。・・・目先のことに囚われるのではなく、永遠を見据えることです。」という言葉が心に残る。
神無月の徳島で見た眉山の優しい稜線、山頂から見た徳島の町並みと藍色の海、蒼天に浮かぶ白い雲。
歴史を作ってきたのは英雄といわれる人や著名人だけではない、むしろ名前も記録にも残らない圧倒的に数多くの人々の営々とした歩みによって現在があると、そんな思いにかられる旅であり本であった。

 

 

 

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