三角点を探る旅 その 11

壱岐・対馬編その7

魏志倭人伝壱岐2 魏志倭人伝は対馬の次に壱岐について記述している。

「又、南、一海を度る、千余里、名づけて瀚海と日う。
一大國に至る。官を亦卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。方三百里なる可し。竹木叢林多く、三千許りの家有り。田地有り、田を耕せども猶食するに足らず、亦、南北に市糴す。」

意味は、「また南に一海をわたること千余里、名づけて瀚海(大海、対馬海峡)という。一大国(一支国の誤りか?。壱岐国と考えられている。)にいたる。官(吏)をまた卑狗(彦)といい、副(官)を卑奴母離(夷守)という。方(域)は、三百里ばかりである。竹木の叢林が多い。三千(戸)ばかりの家がある。やや田地がある。田をたがやしても、なお食に不足である。(この国も)又南北に(出て)市糴(米の交易のこと、対馬と同じ)している。 」

この時代の壱岐と違って今は長崎県で第2位の平野面積を誇っている。

IMG_3730米の生産量も多い。9月初めなのにもう稲が実っている。刈り取りをしているところもあった。ガイドさんによると壱岐でもコンバインを使っての収穫も増えてきているそうだが、天日掛け干しの昔ながらの農法がバスの窓から見ることができ、のどかな秋の風景だった。
さてここは、「原の辻遺跡、一支国王都復元公園」。

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原の辻遺跡は紀元前1、2世紀にさかのぼると言われている。弥生時代である。集落の周りに環濠をつくり、大陸との交易がなされていたとは。
権(けん)というのは、竿秤(さおばかり)のおもりのこと。中国製のものであり、これまでは日本では7世紀頃のものが一番古いと言われていたが、それをくつがえす発見だった。魏志倭人伝にいうようにここで「市」があり、竿秤でものを計っていたのだ。余談だが、権力という言葉はこの「権」から来ているとも言われている。
原の辻遺跡は魏志倭人伝にいう「一支国(壱岐国)」の王都だったと特定されている。

壱岐国博物館 復元公園から一支国博物館に移動する。この博物館の設計は黒川紀章さん。屋根に芝生があり自然にとけこんでいる。
館内の丁寧な案内と説明で有名なところ。
私も古代にどのようにして方角や距離を知って船で海を渡ったのか聞いてみた。
「舟は目に見えるところに漕いでいく、というのが基本だったと思います。そして、一日で行ける距離だったでしょうね。夜にならないうちに着けるところを繰り返す、というように」
私は「星などを見て方角を調べるということはなかったのでしょうか」
「何よりも、文字のなかった時代ですから、それはどうだったでしょう」
という返事。そうか、舟乗りまでに文字が浸透しているという時代ではなかったんだな。
地図や海図や六分儀もなかった時代、もちろん三角点も水準点もなかった時代に荒海を渡る人々がいたこと、そして人間の飽くなき追求心にあらためて驚く。
この博物館のそばにある三角点にも行きたかったが、バスが待っているのでここも残念。

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 この二冊の本はとてもよくできている。対馬の民俗資料館で「何も知らない素人の私が読んでも分かる本はありますか」と聞いたとき、この本を紹介され「この本を読んで長崎をもっと好きになってください」と言われた。

ここで対馬編を読み、一支国博物館で壱岐編を買ったが本当に長崎が、というよりも壱岐・対馬が好きになった。
二泊三日の観光旅行も充実した中身だったが、次回はもう少しゆとりを持って見たいものを見て回る旅をしたいものだ。

 

 

 

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