三角点を探る旅 その 6

壱岐・対馬(いき・つしま)編その2

魏志倭人伝壱岐1「始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る。その大官を卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。居る所絶島にして、方四百余里ばかり。土地は山険しく深林多く、道路は禽鹿(きんろく)の径(こみち)の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食いて自活し、船に乗りて南北に市糴(してき)す。」
これは3世紀末に書かれた「魏志倭人伝」の一節。その当時の日本の様子が書かれていると言われている。
意味は「はじめて一つ海を渡る。一千余あ る。対馬国に至る。そこの大官(長官)は卑狗(ひこ、ひく)といい、副官は卑奴母離(ひなもり)という。住んでいるところは海に囲まれた島で、広さは四方 四百余里ばかりである。その土地は山が険しく、深い森が多く、道路はけものや鹿の通り道のようである。また人家は千余戸がある。良い田がなく、海の物を食 べて自活し、船に乗り南や北に海を渡って穀物を買い入れている。」
市糴(してき)ということがわかりにくく調べてみると、糴は「米などと買い入れること」で、市(いち→市場のこと)に出かけて米の交易をする意味だとわかった。
こういった記録が残っているところがすごい。

IMG_4498厳原港に近づいて見える風景は、確かに絶海の孤島と感じただろうな、と思える。壱岐に比べると島の周りに切り立った断崖が多い。2000年ぐらい前の人達がどのようにして海をわたったのか不思議だ。地図もなく、もちろん三角点などもない未知の土地の方角や距離をどのようにして計測したのだろうか。

 

対馬三等三角点 対馬には住吉神社が1座、和多都美(海神)−わだつみ−神社が4座ある。
ツアーのコースによると豊玉姫伝説のある和多都美神社に行くことになっていた。そのあと近くの烏帽子岳からリアス式海岸の浅茅湾を眺めるというので、それを楽しみにしていた。この烏帽子岳の山頂に三等三角点があるからだ。
豊玉姫と山幸彦(彦火火出見命−ヒコホホデミノミコト)の間に生まれた子どもの子が神武天皇といわれ、日本の建国神話と大きく関わっているのがよくわかる。また、海幸彦・山幸彦神話の発祥の地が対馬とも言われている。

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和多都美神社には鳥居が5つあり、二つは海の中にある。この日は満潮の時に重なり、三つの鳥居が海の中にあり幻想的だった。海と関係の深い神社だとわかる。安芸の宮島のように海からの参拝があるのだろう。
三角の珍しい三柱鳥居がある。3本の柱に囲まれて、海水の中に「磯良恵比寿(いそらえびす)」と呼ばれる「安曇磯良の墓(あづみいそらのはか)」(伝承)が見えた。

さて、お目当ての烏帽子岳は雨と霧で浅茅湾はチラッとしか見えず。展望台付近に携帯電話のアンテナらしき施設があるが三角点はわからず。山の中の三角点は探しにくい上に、雨と霧では無理。あきらめて展望台をおりる。

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忘れてはならない朝鮮通信使

IMG_3383対馬といえば、朝鮮通信使を忘れてはいけない。万松院(初代対馬藩主の菩提寺)の見学の後、歴史民俗資料館へ行く。左は資料館前にあった朝鮮通信使の碑の写真。そばにはこんな説明があった。
「江戸時代の朝鮮通信使 朝鮮通信使は、慶長12年(1607)から、文化8年(1811)までの間に、12回来日した。それは、日本と李氏朝鮮との間の、善隣友好の誼(よしみ)を通わす国家外交の施設であり、一大文化使節であった。
時に、正使以下500名にも及ぶ一行の来日は、壮麗な絵巻を成し、洗練された学問、芸術と、絢爛とした異文化の香りを伝えるものであった。この朝鮮通信使の有形、無形の行跡は、現在も各地に色濃く遺り、近世、日本が鎖国の時代にも、ことばと慣習を異にしながら、誠心の心による伉礼を交した隣国と、その人々へのさらなる尊崇の情念を拡げさせる。世紀を超えて、今、新しい東アジア国際社会の構築の時に鑑み、朝鮮通信使の恒久的に有する史的意義への思いを深くするものである」(注・伉礼→対等の礼)

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上の左の写真は対馬藩お船江跡で現在の船のドッグのようなもの。朝鮮通信使の船もここに停泊したり修理をするときに使ったようだ(見学の時は干潮時だった)。右の写真はお昼を食べたお店に飾ってあった「朝鮮通信使の行列の絵図」。華やかだったことが想像される。
さて、対馬での三角点の旅はここまで。次は壱岐の三角点を探そう。

 

 

 

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