三角点を探る旅 その 12 番外編

壱岐・対馬編その8

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恐るべし壱州豆腐

これが壱岐の豆腐。「壱州豆腐」として壱岐でしか売られていない。お店で聞くと長崎県に送ってもいるそうだが、大阪ではめったにお目にかからない。
大きいこと、450g入のヨーグルトと幅と高さはほぼ同じ。重さは表には900gと表記してあるが、測ってみると水の量もあるので1キログラムを越えている!
私のこの壱岐・対馬の旅の目的の一つにこの「壱州豆腐」があった。
以前の職場に壱岐出身の女性がいた。壱岐のことについて教えてもらうこともあった。壱岐の学校では8月の登校日は9日だった言うこと知って驚いた。大阪では広島への原爆投下の日に登校する、いわゆる平和登校があったが、壱岐での平和登校は8月9日、長崎への原爆投下の日だったのだ。「九州では9日、長崎です。」と言われて、なるほどなー、ナガサキを忘れていたなあ、「ああ許すまじ原爆を〜」と歌っていながら意識からナガサキが抜けていたなあと教えてもらったことはありがたかった。
その彼女が強調したことは「壱岐の豆腐は大きくてかたいのです。」
「かたい?」
「ええ、昔は縄でくくって運んだ、と言っていました。」
「えー!、まさか」
で終わった会話を確かめたかった。
司馬遼太郎さんの「街道をゆく 壱岐対馬の道」にも壱岐の豆腐のことが書いてあった。今はどうなっているのだろう?

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豆腐を焼いたパンを置く網の上に置いてみた。崩れて下に落ちる気配なし。
手で挟んでみる。全く崩れません。確かに壱岐の豆腐はかたい!
この豆腐は壱岐のスーパーで買った。ツアーが物産展にいる時にそこの店員さんに壱州豆腐(壱岐の人は壱岐のことを壱州という。対馬のことは対州−たいしゅう−と言う)は無いのですかと聞くと、「普通のお店で売っています」「えー、普通の店?」「はい、そこのスーパーなら売っています」。ということで走ってスーパーに行く。レジの若い男性にたずねると直ぐに案内してくれた。
「大きいですね」
「ぼくたちはもっと大きいのを食べますよ」
「えー!、まだ大きいのがあるの」
という会話を交わして急いでツアーにもどった。

壱州豆腐のレシピ3種

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ツアーのガイドさんおすすめなのが、「壱州豆腐の素揚げ。適当な大きさに切って熱した油に入れてきつね色になるまで揚げるだけ」。
はい、切ってつかんでも崩れません。これをなにもつけずにそのまま油の中へ。

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物産展の店員さんおすすめが、
「普通の豆腐と同じようにして食べます。私は湯豆腐がすきです」
「それから、うちの父は冷奴ですね。大豆の味を楽しむ、といってそのまま食べています。」
なるほど全部ためしてみよう。

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はい、出来上がり。壱州豆腐の「素揚げ」「冷奴」「湯豆腐」完食です。美味しかった。
ご飯は給食レシピの炊き込みご飯(後日紹介の予定)。

 

 

 

 

 

三角点を探る旅 その 11

壱岐・対馬編その7

魏志倭人伝壱岐2 魏志倭人伝は対馬の次に壱岐について記述している。

「又、南、一海を度る、千余里、名づけて瀚海と日う。
一大國に至る。官を亦卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。方三百里なる可し。竹木叢林多く、三千許りの家有り。田地有り、田を耕せども猶食するに足らず、亦、南北に市糴す。」

意味は、「また南に一海をわたること千余里、名づけて瀚海(大海、対馬海峡)という。一大国(一支国の誤りか?。壱岐国と考えられている。)にいたる。官(吏)をまた卑狗(彦)といい、副(官)を卑奴母離(夷守)という。方(域)は、三百里ばかりである。竹木の叢林が多い。三千(戸)ばかりの家がある。やや田地がある。田をたがやしても、なお食に不足である。(この国も)又南北に(出て)市糴(米の交易のこと、対馬と同じ)している。 」

この時代の壱岐と違って今は長崎県で第2位の平野面積を誇っている。

IMG_3730米の生産量も多い。9月初めなのにもう稲が実っている。刈り取りをしているところもあった。ガイドさんによると壱岐でもコンバインを使っての収穫も増えてきているそうだが、天日掛け干しの昔ながらの農法がバスの窓から見ることができ、のどかな秋の風景だった。
さてここは、「原の辻遺跡、一支国王都復元公園」。

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原の辻遺跡は紀元前1、2世紀にさかのぼると言われている。弥生時代である。集落の周りに環濠をつくり、大陸との交易がなされていたとは。
権(けん)というのは、竿秤(さおばかり)のおもりのこと。中国製のものであり、これまでは日本では7世紀頃のものが一番古いと言われていたが、それをくつがえす発見だった。魏志倭人伝にいうようにここで「市」があり、竿秤でものを計っていたのだ。余談だが、権力という言葉はこの「権」から来ているとも言われている。
原の辻遺跡は魏志倭人伝にいう「一支国(壱岐国)」の王都だったと特定されている。

壱岐国博物館 復元公園から一支国博物館に移動する。この博物館の設計は黒川紀章さん。屋根に芝生があり自然にとけこんでいる。
館内の丁寧な案内と説明で有名なところ。
私も古代にどのようにして方角や距離を知って船で海を渡ったのか聞いてみた。
「舟は目に見えるところに漕いでいく、というのが基本だったと思います。そして、一日で行ける距離だったでしょうね。夜にならないうちに着けるところを繰り返す、というように」
私は「星などを見て方角を調べるということはなかったのでしょうか」
「何よりも、文字のなかった時代ですから、それはどうだったでしょう」
という返事。そうか、舟乗りまでに文字が浸透しているという時代ではなかったんだな。
地図や海図や六分儀もなかった時代、もちろん三角点も水準点もなかった時代に荒海を渡る人々がいたこと、そして人間の飽くなき追求心にあらためて驚く。
この博物館のそばにある三角点にも行きたかったが、バスが待っているのでここも残念。

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 この二冊の本はとてもよくできている。対馬の民俗資料館で「何も知らない素人の私が読んでも分かる本はありますか」と聞いたとき、この本を紹介され「この本を読んで長崎をもっと好きになってください」と言われた。

ここで対馬編を読み、一支国博物館で壱岐編を買ったが本当に長崎が、というよりも壱岐・対馬が好きになった。
二泊三日の観光旅行も充実した中身だったが、次回はもう少しゆとりを持って見たいものを見て回る旅をしたいものだ。

 

 

 

三角点を探る旅 その 10

壱岐・対馬編その6

岳ノ辻三角点1
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下調べをしてみると、この付近には一等三角点、三等三角点、四等三角点、電子基準点まである。どれか一つでも見ることができたら、と思う。
壱岐で一番高いところ、岳ノ辻に登る。登ると言っても標高212.9m だから山というより丘。中央展望台から、なだらかな平野が見える。石で組んだ丸い史跡は復元された狼煙台(のろしだい)。663年の白村江(はくすきのえ)の闘いで壊滅的に敗れた大和朝廷は、対馬、壱岐、筑紫に防人(さきもり)と狼煙台(のろしだい)をおいた。新羅や唐からの攻撃があれば狼煙を上げて信号を大和まで送ることができるようにしたという。
周りを見ても一等三角点がない。タクシーの運転手さんが「みんながいく展望台ではなくてもう一つの展望台で私は見ました」と言っていたことを思い出した。
iPhoneでこの付近の地図を出す。
岳ノ辻1 ここじゃないんだ。来た道をもどり、NHKのアンテナがたっている方に走る。生駒も一番高い所にアンテナがたっている。あるとしたら高い所に違いないはず、坂道を走ると展望台らしいところが見える。急げ、急げ、みんなに迷惑をかけてはいけない。
坂道を走って登る、、、疲れるなあ。

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あった、あった、丸い広場の端に石柱がたっていた。

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かなり古く表面に明治〇〇年、と刻んである。
はっきりと読めるのは「緯度測定標」。
これに違いない、と写真を取る。
でもなあ、、、どこにも三角点という文字がない。
たぶん、緯度測定標と一等三角点が一つで二役をしているのだろう。
管轄の省庁によって呼び名が違うこともあるからきっとこれが「一等三角点」なのだ。よし、ミッション(一等三角点の写真撮影)終了。

一等三角点じゃなかった、、、、

岳ノ辻三角点
大阪に帰ってから資料を整理する。どうもこの一等三角点が気になる。もう一度インターネットなどで岳ノ辻の一等三角点を調べてみる。
なんと、ここには一等三角点と、緯度測定標の二つが並んで立っているのだ。
写した写真を調べてみると、緯度測定標の後ろにそれらしきものが写っている!
私が行った時には、一等三角点は草むらに隠れていて気がつかなかったのだ!!
三角点の周り草が生えていることが多い。季節によって見え方は全く違う。
ああ残念! 直ぐそばまで行っていたのに。草さえなかったら、絶対に気がついていたのに。悔やまれて仕方がなかった。