カジュアル・ベイカンシー 2

IMG_20130722_0001「カジュアル・ベイカンシー」の下巻を読み終えた。ネットには「後半は怒涛のような展開」とか「グイグイ引き込まれる」というような紹介があったが、私は何回も本を置いた。読むのをストップして、少し休憩をはさみながら、でも読み続けた。
途中で投げ出した人も多くいたに違いない。

さあ、この本は人に勧めることが出来る本だろうか。それとも読まないほうがいいよ、と言ったほうがいい本だろうか。私の結論は、「ハリー・ポッターを忘れることができるのなら、そして普段に中学生や高校生が身近にいる人は読んだほうがいい」。

さて、多くの登場人物が出てくるので、上巻のように手元に人物相関図をおいて読むほうがよくわかる。
今回図書館で借りた本には、人物相関図がついていた。でも簡単すぎるように思えたので、職業など少し私が手を加えたものを紹介する。(クリックすると拡大します)

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ジャワンダ家のスクヴィンダー、プライス家のアンドルー、ウォール家のスチュアート、ボードゥン家のガイア、そしてウィードン家のクリスタル。
この5人の高校生が自分を理解してもらえないという思いに苦しんでいる。
アンドルー、スチュアート、スクヴィンダーはウェブを利用し、「不正な」書き込みをして親や周囲を巻き込んでいく。
そのあとの展開については・・・これから読む人のために、書かないでおこう。

でもこんな解決方法しかないのか、どうして破壊的な行動を選んでしまうのだろう。しかし、その道を選択してしまうのが、高校生、15才、16才の正義感なのかもしれない。
だがどうしても救われないのがクリスタル。
広島の10代の女子の殺人事件があっただけに見につまされて考えてしまう。日本も、イギリスも、そして世界の多くの若者が同じような苦しみや悩みにあるということなのか。
ハリー・ポッターの作者だからきっと何か救われる道が提示されるに違いないと、自分に言い聞かせて最後まで読んできた人もいると思う。

兎の眼 何となく胸がざわざわしながら読んだ本や見た映画は?と思い返すと、灰谷健次郎さんの「兎の眼」と1986年に作られた映画「人間の街 大阪被差別部落」に思い至った。
「兎の眼」も最初の1ページ目から胸がつかえてしまった。何日も何日も本を置いて、少しずつ、少しずつ読んでいった記憶がある。まわりにいる子どもたちの現実と重なってしまって、これは小説か?と思いながら読んでいった。
映画「人間の街」もそう。映画史上初めてではないかと言われた、「と場」が映像で紹介された。

人間の街 この映画を見たとき、製作者から「この映画は見終わって、すっきりした、よくわかった、ということをねらって作ったのではありません。何か心にひっかかる。何がひっかかるのだろう、それを感じて、これから考えていくきっかけになる映画にしたかったのです。」という内容の話があったと覚えている。差別や貧困や社会的矛盾は簡単に解決できるものではない。その現実に気づき、何ができるだろうかと主体的に考えることが、解決の第一歩になるということだろうと、今の私は思う。

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四字熟語 「カジュアル・ベイカンシー」は世界各国で翻訳されて読まれているようだ。それはこの本で書かれていることが、それぞれの国の若者や社会と共通するところがあるからだろう。

「カジュアル・ベイカンシー」という本の世界は、事件と悲劇のあと、自分の心の中にある「空席」をうめるために、それぞれが以前とは違った一歩を歩みだそうとしている。そこに希望があるのかもしれない。

現実を映し出すのが小説や映画などの芸術ならば、現実に埋没することなく夢と希望の力を与えてくれるのも芸術や文化のはずである。

次回のJ.Kローリングさんの作品はなんだろう?

(最初の図書館の本以外の写真はインターネットより取っています)

 

 

 

 

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